Homare's Diary

組織人事コンサルタントの徒然日記です

モモが教えてくれること

問いを発することは、積極的な傾聴の顕現であり、それが行われたとき相手にも大きな変化が起こる。特殊な力など何も有していなかったミヒャエル・エンデ「モモ」が有していたのは、積極的な傾聴としての「問い」であり、その問いは相手に忘れていたものを思い返していく。それは、人としての尊厳や自信。そして、人には誰かにおけるモモになれる力を有している・・

 

日経土曜版の若松英輔さんの素晴らしいメッセージ。以下抜粋。

 

聞くという営みが創造的に行われるとき、それは問いという形で顕現する。ある人が何かを語る。それを聞き、問う人の言葉が、語られた言葉の意味を深めるのである。昨今、リーダーと呼ばれる人たちは、自分のおもいを流暢(りゅうちょう)な言葉で語るのに長(た)けているが、深く聞けているかには疑問が残る。

 

ドイツの作家ミヒャエル・エンデの代表作『モモ』(大島かおり訳)には次のような一節がある。主人公のモモは、さほど大きな能力を身に宿してはいなかった。しかし、聞くという点においてはおよそ異能と呼ぶべきちからを有していた。モモに話を聞いてもらうだけで「ひっこみじあんの人には、きゅうに目のまえがひらけ、勇気が出てきます。不幸な人、なやみのある人には、希望とあかるさがわいて」くるのだった。

 

自分の人生は失敗だった。生きていても意味がない。つまらない人間で、自分がいなくなったとしても、誰かがその代わりをつとめる。自分の死はまるで「こわれたつぼ」のように扱われるに違いない。そう感じていた人であってもモモに自分のおもいを打ち明けているうちにまったく異なる実感に包まれていく。

 

「しゃべっているうちに、ふしぎなことにじぶんがまちがっていたことがわかってくるのです。いや、おれはおれなんだ、世界じゅうの人間のなかで、おれという人間はひとりしかいない、だからおれはおれなりに、この世のなかでたいせつな者なんだ。」

 

モモがよみがえらせたのは自信であり尊厳である。自信を失っている人を前に言葉を尽して語るのもよい。そうした行為が何かを伝えることもあるだろうが、話すことでここまでのことはなかなか起こらない。人はつながりがないところでも話し続けられるのである。


いっぽう、聞くことがある深さで実践されるとき、語る者だけでなく、聞く者をすら驚かすような出来事が起こる。

 

もう少しで春になる。新しく社会に出ていく人たち、新しい職場、新しい環境で働き始める人たちもいるだろう。そうした人たちにも私は、この一冊のファンタジーを贈りたい。それは新しい場所でどうやってモモを探すかを考えてほしいからではない。人は誰も自分のなかにモモを宿していること、そして、人は必ず誰かのモモになることができることを忘れないために、この本を近くに置いておいてほしいと思うのである。