特に親しい間柄でもないし、同僚でもない。特定の期間において共通の目的に向け、一緒に戦った戦友というところなのだろう。
今から13年前のこと。同じグループ会社に属する彼女は、大手S社のアカウント営業の中核的存在だった。共に仕事をしたのは、業績芳しくないS社において人材の流動性を促すための研修プログラムを提供してほしいというクライアントのオーダーが発端だった。
彼女は数多の研修商材を具備する会社にいたものの、先方のオーダーを踏まえた際に、叶えられるプログラムが自社には無いかもしれないということを感じ取っていた。そこで、グループの別会社である僕がいた会社の代表に相談をしたのだった。
営業の立場であれば、自社商品の売り上げを最優先するもの。グループ会社とはいえ売上を損ねる可能性がある協力を要請するという行為は普通だったらするものでない。
クライアントの立場に立ってベストな提案をする。ソリューション営業においては当たり前ともいえるこの行為ができる人は、営業力に名高いR社であったとしても数が少ない。そもそも、他の会社の商材に不案内だし、人的なネットワークもないので相談しようという発想自体が沸かないのだ。
彼女の発案で、クライアントに対しては僕らのプログラムと彼女の会社のプログラムの二案を提案した上で、採択してもらうことに。プレゼンは、彼女と僕との対決で行いクライアントは僕たちのプログラムを選んでくれた。
新規事業を立ち上げ、鳴かず飛ばずの状態。逆風の中でのファーストクライアントがS社だった。
ある意味で彼女はライバルでもあり、貴重な機会を創ってくれた恩人でもある。その後事業は複数の有力クライアントを獲得し、大きく浮上していくことになる。その出来事があって4年後、彼女は長年勤めてきた会社を離れ、海外で生活をはじめるとの報を目にすることになった。
実績も人望もあった彼女が、言葉も通じない異国で言語習得から就業まで行おうという動機たるや僕には分からない。でも、そういう価値観であるからこそ、短期的な損得ではなく長い目で見ての価値という観点で、案件を回してくれたのだろう。
その後、僕もその会社を離れた。もはや10年前の競り合いと共闘は遥か昔の思い出となった。そんな折に、異国の地で彼女が癌に冒され手術を行ったという報が目にとまった。無事に手術は終わったものの、2年後に再発。治療のために日本に帰国したものの治癒は見込ず、最後の時間を過ごすために異国に戻るもそれから1ヶ月もしない中で帰らぬ人となってしまったのだった。
同世代でもあり、近況が寸前まで共有されていたこともあり、あっという間に旅立ってしまった彼女のことが人ごととも思えず、なぜか頭から離れなかった。
今や癌などという病気は年齢の早い遅いを抜きにすれば誰にでも罹りうる。それにしても、人の命というものはあっという間につきてしまうもの。もちろん、そんなことは我が身の体でもって分かってはいる。きっと、あの時の感想戦を語りたかった自分がいたのだということなんだろう。
若かりし日に重篤な病を持った中で得た教訓は、『命みじかし、恋せよ乙女』であり、恋をした人にはしっかり自分の意思を伝えるということだった。今は、話をしたいと思った人には、たとえ時間が短かろうと会って話をしておくべきということ。大した話ができなくても、盛り上がらなくとも良いのだ。
恐らくそういう意思を持っている相手には、その心は通じているだろうしね。