Homare's Diary

組織人事コンサルタントの徒然日記です

報酬の原則

世の中、金を扱う仕事の方が報酬が高い。金融機関はその典型であるし、組織人事においては役員報酬、報酬制度改革のフィーが高い。

 


すごく高度で難しいことをやっているのかというとそんなわけではない。ミスは許されないし細かなロジックが必要にはなるが、ある程度パターン化された処理の組み合わせであり、創造性の発揮の余地も限られている。

 


等級・評価制度のあり方やその運用、ひいてはエンゲージメントといったソフト領域にこそ創造性や問題解決のイマジネーションが必要だと思うのだが、ここはクライアントもさほどの価値を見いだしていない。

 


案件獲得額の大きい人間がコンサルタントとして優秀だというなら、報酬制度ばかりやればいい。システムも抱き合わせたらさぞかし儲かるだろう。だが、おんなじこと繰り返す仕事って飽きる。突き詰めれば、そういうのが好きな人がやればいい。

 


でも、やってやれなくはないが、それで報酬が今より5割増しだ…と言われるとなかなか問題は難しくなる。

 


あるメガバンクの人事部長が言っていた『僕らの仕事は、代わりなんていくらでもいる。正直つまらない。だから報酬を高くしているんだよね…』

 


これが本質なんだ。お金なんてどうだっていい…と破顔一笑できたら楽ちんだ。世の中の原則や自分の特性もよく分かっているけどね。

副業・兼業プラットフォームの可能性

自分の経験・スキルを活かせる、なおかつ自分が大事にしている価値観は、今の会社だけで満たすことができるのか?

 


今の会社で完全に満たせていないとして、新しい会社に変われば満たされるのか?それとも独立起業して自分の思うがままの会社を創れば解決できるのか?

 


この答えはどれもがNoなのではないだろうか。100%の場所などどこにもない。働き方や報酬という変数を入れていけばなおさらだろう。

 


では100%にしていくにはどうすればよいのか。それは昇格でも転職でも起業でもないのかもしれない。一つの大きな可能性は兼業・副業だ。

 


働く場をゼロリセットするのではなく足し算で考えていく。今の会社で仲間に恵まれていないのなら、違う場所では仲間を重心に据える。今の会社で自分の経験・スキルを発揮できていないのなら、それを求める場所でも働いてみる。収入だって少しずつ足し算すればいい。

 


事業ポートフォリオのように仕事やボランティアを組み合わせていけば、生産性資産も変身資産も大きくすることが可能であるし、何より一本足打法によるリスクも分散することができる。

 


問題は、副業・兼業先を開拓し、個人とブリッジさせるエージェントサービス。ここがうまく立ち上がれば、面白いことになるんじゃないかな…

 

https://www.persol-pt.co.jp/eventseminar/list/other/fukugyo_20200917/

 

 

 

 

健康な肉体への執着

「健全なる精神は、健全なる肉体に宿る」とするならば、不健全な精神は、不健康な肉体に起因する。


太陽の季節で作家デビューをした石原慎太郎氏は、太宰治などに批判的だった。「精神が不健康だ」と。それは肉体の健康が保てていないから。実際に戦中派作家の多くは自己破滅的な生活を送っていた人が多い。むしろそうした刹那の中に積極的に自分を置くことで非日常的な美を見いだそうとしていたとも思える。


石原氏にとってのアイデンティティは、強く健康な肉体であり華麗にスポーツを熟せる抜群の運動神経に立脚した「健康的精神」にあるとしていたことは紛いない。そして、そうした立場にある自身をある種の優越感をもって捉えていたのだろう。


だから、不治の病や難病に冒されている人間においては、業の深さからくるものだと上から目線で捉えてしまう。同世代の作家であった三島由紀夫氏に対してはボクシングの対戦をした中では運動神経を感じられなかったと蔑視もしている。


一方で、健康な肉体というモノは老化と共に失われていく。「老いてこそ人生」を執筆したのが今から18年前の69歳。老いとは無縁なAround70とはいえ、Around90ともなると世界は全く異なるものになる。脳梗塞、ガンを発症し、もはや健康を誇っていた肉体というモノはその原型を留めていない。それでも、不死の病から生還したということを誇らしげに語るところに強い肉体への執着を感じてしまう。


今となっては朱夏の鍛え抜かれた肉体をもったまま夭折した三島由紀夫氏の事を羨んでいるところもあるのではないか・・とも思う。そう、若く健康な肉体をもっていない老いた存在というのは、石原氏が最も忌み嫌う存在だったであろうから。

薄底軽量型か厚底反発系か

最近のマラソンシューズは厚底反発系。箱根駅伝でもナイキの厚底靴旋風。

 


以前はレース用のランニングシューズといえば、薄底の軽量モデルが主流でした。僕が初めてレース用として買ったナイキのカタナレーサーもその系譜。このモデルも箱根駅伝のランナーに多く支持されました。軽量で履いている感覚がほとんどないのですが、薄底のために走り込みをしていないランナーは膝に来ます。

 


練習用のランニングシューズは、だいたい3年ぐらいで履きつぶしてしまうのですが、レース用のこいつだけは15年以上経つものの捨てずにとってありました。

 


このところの夏の暑さはかなり厳しく、練習用のシューズは蒸れるし重いので、久しぶりにこいつを履こうと思いきや、ソールはかなりすり減っているし、接着面も取れかけだらけ。裏底の補強ゴムを張り直し、接着剤を付け直して久しぶりに履いてみました。やっぱり軽いし走りやすい。そして軽く膝に来る。

 


厚底シューズが気になりつつ、クラシックで余計なモノを削ぎ落としたカタナレーサーは、ある意味でランニングというスポーツを象徴するシューズらしいな…と思うわけです。タイムは厚底の方が出ると思うのですけどね。

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憧憬の水準器

『歳をとって奇妙に感じるのは、自分が歳をとったということではない。驚かされるのは、自分と同世代であった人々が、もうすっかり老人になっている…とりわけ、僕の周りにいた潑剌とした女の子たちが、今ではおそらく孫の二、三人いるであろう年齢になっているという事実だ。そのことを考えると、ずいぶん不思議な気持ちがするし、ときとして悲しい気持ちにもなる。自分自身が歳をとったことについて、悲しい気持ちになるようなことはまずないのだけれど。

 

 

 

かつての少女たちが年老いてしまったことで悲しい気持ちになるのはたぶん、僕が少年の頃に抱いていた夢のようなものが、すでに効力を失ってしまったことを改めて認めなくてはならないからだろう。夢が死ぬというのは、ある意味では実際の生命が死を迎えるときよりも、もっと悲しいことなのかもしれない。』(村上春樹  ウィズ・ザ・ビートルズ)

 

 

 

この感覚は共感するな。鏡に映る自分や写真に撮られた自分の中に歳をとったことを認めたとしても、そこまでがっかりはしないのだけれども、同世代の人たち、特に心のピンナップに留まっている女の子たちにおいて年齢の影を見るとちょっと悲しい気持ちになるもの。

 


もちろんそれは僕を見る相手においても同じなのだろうから、きっとおあいこなんだよね。まあ、そういう人がいたらの話だけど。

会社は対価を得る場に過ぎない

人生を振り返って、『自分はこの会社に仕えるために生まれてきた』なんて思う人はいないだろう。仮にそう思っている人がいたところで、よくよく話を聞いてみれば、そこで成し遂げてきた仕事や経験が他に代えがたいものであったというだけのこと。

 


会社なんて所詮、稼得と自己実現のための手段に過ぎないのだから、そこにいることを目的化するのはおかしい。増して過度な期待をするものでもない。

 


強力なオーナー会社でもなければ、会社に人格や価値観があるわけではない。自分の価値を決定づけるのは、所詮直属の上長に過ぎない。だから、夢を描ける人がいる一方で、その会社らしくない目に遭う人だってある。

 


冷静に考えれば、そんなことは分かるはず。会社は利用するものであって、搾取されるものでも人生を犠牲にするべき存在でもない。

 


辛いことがあったらその分いいことが起こる、という法則は会社の中だけでは成立しない。期待を掛けて待てば待つほど、自分の可能性は減少し、不可能を知ったときの絶望も大きい。パチンコなんかと同じで引き際を見極めるのが肝心。(賭け事は、大人になってからしませんけどね)

 


自律の大前提は、有限性を認識すること。その中で、選ばなかったことで後悔しない事を無くしていくこと。でも、会社における上級ポジションというのは、自分の心が本当に求めているものを一掃してしまう魅惑がある。でも、魔法なんて一瞬のうちに解ける。

 


その時に残された老いた自分をみすぼらしく思わないようにした方がいい。

 


しかし、純粋培養でいい目ばかり受けてきたサラリーマンは、なんてだらしなく打たれ弱いのだろう。定年後も何年居座るつもりだい…実力はあってもそういう人ほど鬱陶しく思うのが組織の論理なんだぜ…もうそろそろ気持を切り替えようぜ…

 


キャリア自律を推進してきている当事者が、組織に縋ったり恨み節言っちゃダメなんだよ…専門性を培ってきたんだからフロンティア精神で外部に目を向けようよ…

 


でも、自社の中でパイオニアになると、自分は何時までも重宝がられる…こういう幻想をもつ単純な人多いんだよな。まあ、分かるけど。いい加減、その打算的なパラダイムはやめたほうがいい。人生短いのだから。

義に生きるか義憤にかられるか

山崎豊子さんは作品で一貫して「義」をもった生き方とは何かということを描いている。そうした作品の中で、「沈まぬ太陽」はかつて大きく影響されとても好きな作品だった。過去形というのは、見方が少し変わったからということになる。

 


国民航空(JAL)で将来を嘱望された幹部候補だった主人公。ちょっとした成り行きから労組委員長となって経営側と対決。処遇改善には大きな貢献をしたものの問題社員としてマークされ、海外の僻地を長期間不当配置され続ける。

 


小説では、親方日の丸で潰れることはないという構図に甘え、利権をもって私腹を肥やす官僚、上層部の腐敗ぶりがこれでもかと描かれている。不当配置が解かれ本社に戻ってきた主人公は、そうした問題に敢然と立ち向かうものの、最後は自分をブレーンとして呼び戻した会長の更迭に伴って再び僻地左遷となってしまう。

 


内容はJALと特定されうるもので、僕は物語を読むと同時にJALという官僚体質の会社に憤りを感じ、JALには数えるほどしか搭乗していない。まあ、スターアライアンスマイレージをためているというのも大きいのだけど。

 


ただ、その後のJALの経営や社員の行き過ぎともいえる処遇の実態を見ていると、「空の安全を守る」という大義名分のもとに行き過ぎた組合運動を展開し、処遇改善を行ってきた 「なれの果て」が経営破綻に繋がったと言えなくもなく。果たして、あの物語の主人公が義に駆られて取ってきた行動とはなんだったのだろうという思いも強くなってきた。

 


中曽根政権時にJALに送り込まれた鐘紡会長の伊藤淳二氏は、結局JALを立て直すことが出来なかった。一番は、利権集団ともえる複雑な労働組合にメスを入れられなかったことにある。あの小説を見ていると、JALの経営を立て直すのは並大抵の事ではないと思えたのだが、稲盛さんは本当に見事だったとしか言いようがない。

 


最近、ブラック企業という事が殊更に言われるようになってきた。社員の人格を否定し、使い捨てにする企業は許せない。でも、かつて、「空の安全を守る」という大義名分の中で、権利志向で経営感覚のない組合の増長を許し、企業の競争力を貶めてしまったJALのムーブメントに何かちょっと似てなくもない。

 


義に生きることは大事だけれども、義憤に駆られている人というのは一番たちが悪い。周りを冷静に見ることが出来ず、自己正当化に走りがちだから。変に感情論で事を煽るのではなく、日本企業が置かれている状況や事実をみて考えた方がいいと思う。その一番の張本人はマスコミだと思うのだけど。