Homare's Diary

組織人事コンサルタントの徒然日記です

Think Different

秀才とは、Do things right が得意な人。正解、ルール、相対性の世界に生きる人。

 


天才とは、Do the right thing を求める人。Rightはその人の中にある美学であり、ビジョン。そこには相対はない。あくまで絶対的なもの。

 


天才は、秀才の存在などは気にもとめない。相対観で生きていないから。むしろ、行動において規則やら秩序をいちいち持ち出す秀才は、自由を縛る面倒な存在程度に感じているくらいだ。それすらもノイズ程度にしか捉えない。

 


一方で秀才は天才に深い嫉妬を抱く。努力では自分に到底かなわない領域を持っているから。深い嫉妬心がいよいよ深くなると、秀才はルール遵守や秩序、利益確保といった『正論』という暴力で天才を攻撃してくる。そこに反論できる『凡人』はいない。迎合するのがおちだ。

 

 

 

そして、天才は秀才に殺されるのだ。

 

 

 

イノベーションが起こせないといっている組織は、クレイジーさをもった天才を秀才が放逐する組織。秩序を維持することや相対的に上に行くことが、正しさであり美しさだと信じて疑わない学校秀才の跋扈する組織なのだ。

 


アップルCM「Think Different.」(声:スティーブ・ジョブズ)[日本語字幕]

人生はエンデュランス

人間の体なんて結構もろいものです。事故という外的衝撃ではなく、タチの悪い感染症にかかれば若くて体力のある人であろうが数日で重篤になります。

 


ドミノが一挙に倒れるようにだめになる。

 


劇症型溶血性連鎖球菌感染症

 


僕が罹患したのは上記の感染症でした。致死率30%。多臓器不全で後遺症が残る場合もある。30年近く前のことですが、未だに記憶は鮮明に残っています。治療法の確立されていない難病にかかり、一気に自分の体が自分のものではなくなる、この恐ろしさと無念さといったら…これに比べたらどんなこともかすり傷です。

 


そして、そういう憂き目にたった人間からすると、生きている限りはパフォーマンスをフルに出せる体でありたいし、そのためには体を維持するための時間と労力の投資は、何よりも優先すべきということ。結局、それを怠ると自分も気持ちよくないし、周りに多大な心配と迷惑がかかるのです。

 


人生ってそれ自体がエンデュランス馬術における耐久レース)。耐久・持久力があれば、チャンスも多くなるし、長軸で好機を狙うこともできる。でも、そうした努力だって抗えない運命というのもあるよね。

 


巨星の訃報に接し、あらためて考えてしまいました。

アスリートウォッチ

横目で見送り続けてきたスマートウォッチ。ふと気が変わって手に入れることにしたのです。それは、フルマラソンなど長い距離ではスマホではバッテリーが持たないから。

 


バッテリーを新調した今のiPhone7でも20km走ると100%が50%を切るレベル。フルはとても持ちません。ios12以降は電力消費が多くてだめですね…

 


要件は、防水、音楽が聴ける、デザイン性、バッテリーの持ち、常時ディスプレイされるインタフェース(ブラックアウトされるの嫌いなのです)

 


Apple Watchは選択肢にハナからはいりません。電話もメールもSuicaも必要ない。持っている人多くてデザインも好きじゃないし。ここは、アスリート仕様のGarminSUUNTOです。

 


ランナーとしては、オーソドックスにGarminにしました。手に入れたのはForeAthlete 635 music。ラウンドフェースの落ち着いたデザイン。音楽も聴けるし、防水でNike Runとの接続もできる。マイナーなGarminPayがついているのでローソンでなら買い物ができる…これはご愛敬レベル。

 


手にして感じていること。インタフェースデザインがいろいろ選べて楽しい。CASIO G-SCHOCKパターンなどギミック感満載。でも、スマートウォッチにしてしまうと気分で他の時計を選びづらくなる。ライフデータなどを常時蓄積してくれますからね。

 


シューズも先日行った御殿場アウトレットでお値打ちのAdidasのシューズに新調。新年度から新たな気分で街を走れそうです。

ライバルのハラスメント

危険なドライバー。

 


89年F1ワールドチャンピオンをかけて争った鈴鹿接触の悪夢からコースに復帰し、劇的逆転優勝かと思われたアイルトン・セナの姿は表彰台には無かった。ポイントリーダーだったアラン・プロスト接触し、レース復帰した際のシケインが不通過とされ、失格の裁定が下ったからだ。

 


セナがレースを終えれば自動的に優勝となるプロスト接触後は車を降り、鬼神の走りでレースを続けるセナを見るなり、審判席に向かっていた。セナは失格であり、自身の優勝を確実にするために。果たしてプロストの申告は採用された。

 

 

 

そして、ワールドチャンピオンを失ったアイルトン・セナは失意の年とともに激しい批判の矢面に晒される。絶対的な権力を持つFIA会長のバーニー・エクレストンから、一方的に『危険なドライバー』のレッテルを貼られ糾弾されたからだ。これにより、F1を走ることができるスーパーライセンスの発給は見送られた。

 


このネガティブキャンペーンには仕掛け人がいた。フランス人ドライバーのアラン・プロストが会長に働きかけたからだ。

 


F1はヨーロッパ発祥のスポーツ。ブラジル人ドライバーのセナの活躍を必ずしも快く思わない権力者もいた。そこに取り入ったのだ。優勝を分け合った宿命のライバルが仕掛けたパワーハラスメント。セナは、不承不承FIAに謝罪を行いスーパーライセンスは発給された。あまりにも理不尽で不可解な出来事。

 


セナに何度もワールドチャンピオンを阻まれていたプロスト。どんな手段を使ってでもセナを阻みたかったのだろう。こういった構図は、スポーツに限らずどこにでもあるだろう。

 


こうして犬猿の仲となったプロストとセナだが、プロストの引退後に両者の関係は劇的な改善を見せる。プロストを失ったセナは、彼がいてこそ限界まで自分を高めることができた自分を知る。そして、プロストにコックピットから無線で呼び掛ける。

 


『アラン、君がいなくなって寂しいよ…』

 


セナの亡き後、アイルトン・セナ財団の管財人就任をセナの姉が呼び掛けたのは、因縁のプロストだった。ライバルは、時に自身の人生を変えてしまうハラスメントをする存在でもあり、自己の限界を引き出す存在でもあるのだ。

夕焼けはすべての芸術である

芸術というのは巨大な夕焼けです。一時代のすべての佳いものの燔祭です。さしも永いあいだつづいた白昼も理性も、夕焼けのあの無意味な色彩の濫費によって台無しにされ、永久に続くと思われた歴史も、突然自分の終末に気づかされる。美がみんなの目の前に立ちふさがって、あらゆる人間的営為を徒爾にしてしまうのです。

 


夕焼けの本質などというものはありはしません。ただそれは戯れだ。あらゆる形態と光と色との、無目的な、しかし厳粛な戯れだ。ごらんなさい、あの紫の雲を。自然は紫などという色の椀飯振舞をすることはめったにないのです。夕焼け雲はあらゆる左右対称(シンメトリー)に対する侮蔑ですが、こういう秩序の破壊は、もっと根本的なものの破壊と結びついているのです。もし昼間の悠々たる白い雲が、道徳的な気高さの比喩になるなら、道徳に色などついていてよいものでしょうか。(三島由紀夫 豊穣の海 第三部 暁の寺

 


夕焼けの素晴らしさをここまで見事に表現した文章に僕は遭遇したことがない。全ての芸術は、夕焼けだなんて…

 

 

 

僕は世の中のあらゆる景色の中で、夕暮れ、夕間暮れの空ほど美しいものはないと考えている。毎日見られるものなら、見ていたいし飽きるということが全くない。その魅力というのは、一体どこにあるのか。

 


三島の文章にはその理由が全て散りばめられている。

 


・色彩の乱費。ことに紫のような色を自然で見ることが少ない

・美の基準であるシンメトリーを全く持っていないのに美しい

・大きな天空の普遍性と関わりあい、もっとも内面的なものが色めいて露わになる外面性とむすびつくものが夕焼けである

・昼間に抱いた小さな理論も天空の花々しい感情の放恣に巻き込まれてしまうと、人々はあらゆる体系のその無効性を悟ってしまうものである

 

 

 

この小説の一節には、登場人物の台詞を借りて夕焼けの持つ魅力をすべて表現し尽くしてしまっているといっても過言ではないでしょう。この文章を見るといよいよ夕暮れの時間には、正々堂々と空を見上げる正当性を与えられた気持ちにもなるものです。

 

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一勝一敗

入学試験も終了した2月下旬。大学のキャンパスには人もまばら。部活でもなくこの時期のキャンパスに来ていたのは、3年次の学年末試験の追試験を受けるためだった。

 


1月に実施された試験。病床にあった僕はすべて受けることができなかった。せめて行ったのは、病床から自分の病状の深刻さとそれ故に試験を受けられない窮状を綴った賀状を教授陣に書くことだけだった。

 


3年次の単位を取れるかとれないかは、4年次の生活を大きく変えてしまう。就職活動を控えたこの時期、留年の陰におびえながら大学生活を送ることだけは避けたかった。財政的に親にこれ以上負担もかけたくない。

 


賀状に心を動かされた教授の数人からは、返信や電話がかかってきた。どれも心配することはないから、追試験を受けなさい…という優しいものだった。その電話の一人は、川嶋教授だった。秋篠宮紀子妃の父君だ。

 


計量経済学…僕は得意なジャンルではなかった。よい学生ともいえなかった。僕は、得手不得手がハッキリしているのだ…

 


果たして追試を受けると、全ての課目は単位を修得することが叶ってしまった。難病にかかった学生を不憫に思った教授の情状酌量といったところだったのだろう。

 


単位が大方取れてしまった4年次。興味のあるゼミ形式の授業をいくつもとった。その一つは川嶋先生の授業だった。計量経済は苦手だったが、ゼミ形式の授業は毎回とても楽しかった。

 


ある回の授業に、先生は自分の大好物だ…とのことで南国の珍味フルーツ『ドリアン』を持ってきた。それがあまりにも印象的だったので、卒業旅行でいったバンコクでこれを食したものの、酷い食あたりをした。ビールとの相性が悪かったのか、切り身が不衛生だったのか、なんでも移動日が重なるタイミングで大変だった。

 


幾星霜が経ち、恩師の退官記念行事に川嶋教授の姿を見つけた。いつか会ったら話そうと思っていたこと。追試の件では世話になったこと、ドリアンではひどい思いをしたこと…

 


『はは、そうかあ。僕は君にとっては一勝一敗だね…』

 


先生と撮った写真は大事な記念の一枚だ。

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トランジション・ポイント

資源には限界がある。時間、体力、能力、精神力。

限界を超えて物事を行ったとき、何かが犠牲になる。それによって傷つくものが出てくる。そのツケは大きな代償となって自分に還ってくる。

ストレスを与えれば、ストレスとして自分に返ってくる。

そのことを痛いほど実感したのが今年度だった。家族、仲間、大事にしてきた顧客…延びきった兵站の中でいくらもがいたとしても、物事は改善していかない。溜めたストレスを周りにぶつければ、周りは傷ついていく。負のサイクルだ。

拡大した戦局の中で、全知全能、フルパワーで行っても瓦解ポイントはすべて埋め切れない。まず、僕とともに戦うメンバーが痛んでしまう。家族ともまともに向き合える時間も持てなかった。

ブレーキが故障しアクセルを踏みっぱなしにしている車のような危うさが、今年の僕にはあったのだと思う。

アクシデンタルな出来事は、ある意味で緊急停止ボタンを押されたといえるのかもしれない。そして、身を焦がすような精神的苦痛から少しずつ落ち着いてくると、僕に期待をし、ともにやってきた仲間たちの期待を裏切り、大きく傷つけてしまったことの呵責が胸に迫ってくる。


『これもある意味でのトランジションだと思ってほしい』

きっとそうなのだろう。いや、そうしなくてはいけない。
人間万事塞翁が馬


延びきった兵站は、ライフワークに集中させる。自分しかできないこと、自分が信じる道。犠牲を強いてしまった人たちへの贖罪とともに。