僕が小学校時代から大人になるまで過ごした我孫子は、今住んでいる鎌倉との共通項があり、北の鎌倉とも呼ばれた場所。その理由は、都心からほどない距離にありながらも湖沼を臨む情緒豊かな場所であり、鎌倉と同じ別荘地であり、白樺派の文人たちが拠点を構えたことに由来しています。
白樺派は、学習院の同級生が創設した芸術集団であり、志賀直哉、武者小路実篤、柳宗悦、バーナード・リーチ…なかなかそうそうたる顔ぶれです。ちょうど今、原田マハさんの『板上に咲く』を読んでいるのですが、世界的な版画家である棟方志功さんが芸術家を志すきっかけを創ったのは、雑誌白樺において柳宗悦氏が紹介した『ゴッホ』のひまわりに感銘を受けたことだったりします。
白樺派というのは大正、昭和期において最先端の芸術家集団であり、大きな影響力を持ったタレント集団だったわけです。最先端のアート集団が選んだ場所が、鎌倉ではなく我孫子だというのも興味深い。
実際に志賀直哉邸があった場所を見ると、戦後の宅地造成で見る影もなくなった我孫子の市街地において、鎌倉と同じような景色があったことがうかがい知れます。
ここは手賀沼公園からほどないところですが、昭和50年代前半に我孫子に越して来たときには、沼の汚染が激しく情緒の欠片も感じられませんでした。今は沼も綺麗になり公園も綺麗に整備され、少し当時の雰囲気を感じる事ができます。
我孫子と鎌倉を分けたものは、イギリスのナショナルトラスト運動を知る大佛次郎さんを中心とした自然保護活動にあります。これが無かったら鶴岡八幡宮の裏山はすべて宅地化されて鎮守の山はハゲ坊主になっていたはず。
僕の住んでいる谷戸においても聡明な知識人たちが、谷戸の景観を維持するために市と長い時間をかけて交渉を重ねてきた歴史があります。
同じような無計画な開発は日本中の至るところで行われたわけで、鎌倉というのは心ある人たちによって自然が残された奇跡的な場所であるとも言えます。ちょうど、先日旧華頂宮邸開放のボランティアの際に昔からこの場所に住む人たちと話をしたのですが、道の脇の側溝に蛍が住む小川が流れ、今時期はウグイスの大きな声が響いているこの場所、70年前から全然変わっていないそうです。
もし、我孫子において白樺派の文人たちがナショナルトラストを行っていたら、今は全然異なる景色が拡がっていたかもしれませんね。