Homare's Diary

組織人事コンサルタントの徒然日記です

ワイヤレス機器の弱点

AfrerShokzの骨伝導イヤホンを2年前からリモート会議やランニングで愛用しています。耳を塞がないので、外の音が拾えて安心だし音質も結構よい。これとAirPodsProを併用するようになってきて、Shure535,315の出番が減りました。音質は良くてもコードが鬱陶しいのですよね…(Bluetoothケーブル使ってますけど)

 


最近走った後に充電をしようとすると、充電が上手く行えない。確かに水分が充電アダプターパーツに着いていると充電ができないのは当たり前。これはiPhoneと同じです。

 


そういう時は水分を拭き取ってしばらく乾かしてあげれば問題がなかったのですが、充電状態が解消されないことが頻繁に起こるようになりました。防水性能の高いIP67規格なのに。水が入るとかありえんでしょ…

 


心なしかスイッチボタンも浮き上がっていて簡単に取れてしまう。原因はこれか…

 


サポートに連絡をすると幸いながら2年保証のギリギリのところだったので対応してもらい、新品に交換してもらえることになりました。ラッキーでしたが、2万もするヘッドホンの耐用年数が2年とかありえんわ…

 


とはいえ、AirpodsにしてもShokzにしてもバッテリー内蔵型なので、バッテリーが劣化をすると相応の出費が伴うということです。長く愛用できるサステナブルな機器とは到底いえないですね。

出来なかった感想戦

特に親しい間柄でもないし、同僚でもない。特定の期間において共通の目的に向け、一緒に戦った戦友というところなのだろう。

 


今から13年前のこと。同じグループ会社に属する彼女は、大手S社のアカウント営業の中核的存在だった。共に仕事をしたのは、業績芳しくないS社において人材の流動性を促すための研修プログラムを提供してほしいというクライアントのオーダーが発端だった。

 


彼女は数多の研修商材を具備する会社にいたものの、先方のオーダーを踏まえた際に、叶えられるプログラムが自社には無いかもしれないということを感じ取っていた。そこで、グループの別会社である僕がいた会社の代表に相談をしたのだった。

 


営業の立場であれば、自社商品の売り上げを最優先するもの。グループ会社とはいえ売上を損ねる可能性がある協力を要請するという行為は普通だったらするものでない。

 


クライアントの立場に立ってベストな提案をする。ソリューション営業においては当たり前ともいえるこの行為ができる人は、営業力に名高いR社であったとしても数が少ない。そもそも、他の会社の商材に不案内だし、人的なネットワークもないので相談しようという発想自体が沸かないのだ。

 


彼女の発案で、クライアントに対しては僕らのプログラムと彼女の会社のプログラムの二案を提案した上で、採択してもらうことに。プレゼンは、彼女と僕との対決で行いクライアントは僕たちのプログラムを選んでくれた。

 


新規事業を立ち上げ、鳴かず飛ばずの状態。逆風の中でのファーストクライアントがS社だった。

 


ある意味で彼女はライバルでもあり、貴重な機会を創ってくれた恩人でもある。その後事業は複数の有力クライアントを獲得し、大きく浮上していくことになる。その出来事があって4年後、彼女は長年勤めてきた会社を離れ、海外で生活をはじめるとの報を目にすることになった。

 


実績も人望もあった彼女が、言葉も通じない異国で言語習得から就業まで行おうという動機たるや僕には分からない。でも、そういう価値観であるからこそ、短期的な損得ではなく長い目で見ての価値という観点で、案件を回してくれたのだろう。

 


その後、僕もその会社を離れた。もはや10年前の競り合いと共闘は遥か昔の思い出となった。そんな折に、異国の地で彼女が癌に冒され手術を行ったという報が目にとまった。無事に手術は終わったものの、2年後に再発。治療のために日本に帰国したものの治癒は見込ず、最後の時間を過ごすために異国に戻るもそれから1ヶ月もしない中で帰らぬ人となってしまったのだった。

 


同世代でもあり、近況が寸前まで共有されていたこともあり、あっという間に旅立ってしまった彼女のことが人ごととも思えず、なぜか頭から離れなかった。

 


今や癌などという病気は年齢の早い遅いを抜きにすれば誰にでも罹りうる。それにしても、人の命というものはあっという間につきてしまうもの。もちろん、そんなことは我が身の体でもって分かってはいる。きっと、あの時の感想戦を語りたかった自分がいたのだということなんだろう。

 


若かりし日に重篤な病を持った中で得た教訓は、『命みじかし、恋せよ乙女』であり、恋をした人にはしっかり自分の意思を伝えるということだった。今は、話をしたいと思った人には、たとえ時間が短かろうと会って話をしておくべきということ。大した話ができなくても、盛り上がらなくとも良いのだ。

 


恐らくそういう意思を持っている相手には、その心は通じているだろうしね。

下手な運動休むに似たり

40代以降ともなると、基礎代謝が下がり太りやすくなってくる。

 


原因は、運動不足による筋力減少による基礎代謝の低下だと思われがちだけど、運動をさほどしない人でも男女関わらずスリムな人はいたりする。それはホルモンの分泌がしっかりされているから。

 


ストレスや不規則な生活をしていると男女ともに男性ホルモン、女性ホルモンの分泌量が下がり、それは男性であれば筋力の低下を起こし、女性であれば脂肪の蓄積を招いてしまう。

 


この状態になると少々の運動で痩せることは困難であり、ダイエットは基礎代謝の更なる低下を招くのでリバウンドのリスクと引き換えになる。

 


最近、低料金で利用できるスポーツジムというのが流行ってきている。ジムに行く動機たるやダイエットが大きいのだが、短時間のマシンワークのような無酸素運動はダイエットには効果的ではない。低負荷で長い時間運動をするランニングに代表される有酸素運動がダイエットには効果的。

 


よって、隙間時間に行うジムというのではダイエットという果実は手に入るものではなく、効果が見えないとモチベーションが維持できず運動習慣が身につく前に、ジムから足が遠くなってしまう。退会しようかと3000円だったら継続しておいていいか…という絶妙な価格設定で幽霊メンバー確定。

 


あれは、結構うまく考えられたビジネスだと思うのです。週3日30分くらい利用するアクティブ会員の率は、10%にも満たない程度じゃあないかしらね。

 


吉永小百合さんは毎日1キロの水泳(しかもバタフライだったりする!)をすることが、美の維持の秘訣ですし、トムクルーズや福山雅治さんに至っては毎日4時間のトレーニング。石田ゆり子さんもピラティスと水泳。ちょこっとの無酸素運動じゃだめなんですよね。

この仕事をしてきて良かったこと

高校卒業から30年の節目の同窓会が台風、コロナで延び延びになりようやく開催できたのが昨年の秋。今年の5月には大学卒業の30周年同窓会の案内。高校の同窓会は4年も延期されたのってすごいよね・・

それと同時に大学卒業から30年ということは、社会人30年目に入ったということで。結構な年月が経ったということですよね。今年も自分の会社に入った32名の新入社員に対して研修を受け持ったわけですが、コンサルティングの仕事を30年も続けてこられるなんて当時は思わなかったですね。

大して出来の良い部類ではなかったですから、こんな知的ハードワークができるのは、頭が切れる人間にしか務まらないのだ・・なんて思ったときもありました。これも一重に、自分が探求できるテーマを試行錯誤の上に選んだことと、期待を寄せてくれるお客様があってこそのキャリアだなと思うわけです。

先日、代表に僕を照会する電話がかかってきました。その方には今の小さな会社に転職したことはしっかりお伝え出来ていませんでした。一方で10年にも渡るお付き合いをしてきたクライアントのメンバーの方でもあり、苦楽をともにした戦友でもありました。


その方は、昨年の春に人材開発部長に就いたのだそうです。人事企画の畑が長く、人材開発については経験値が低い。この分野に明るくて自分の会社の事を誰よりも知ってくれている人は僕だと思い。そこでGoogleで検索をしたところ今の会社にいることが分かり、それで電話をしたのだとのこと。電話をしたときには、ちょっとドキドキしましたよ・・と。

打ち合わせに参加した配下のメンバーは、社内公募制度で人事を希望して来てくれた人で、僕が素案を作り3年前に導入した公募制度の成果なんです・・と。新しい立場でまた一緒にやっていきたいのでよろしくお願いします。


映画「男はつらいよ」で満男が寅さんにこう尋ねるシーンがあります。
「あのさぁ?人間ってさあ?」 『人間?人間どうした』
「人間は・・何のために生きてんのかな?」 『おまえ、難しいこと聞くなぁ。うーん、なんていうかな。ほら、あぁ生まれてきて良かったなって思うことが何遍かあるじゃない。ねえ、そのために人間生きてんじゃないのか?』
「うーん」 『そのうち、お前にもそういう時はくるよ』


このシーンとても好きなんです。この仕事を続けていると、やっていて良かったなと思うことがあるわけですが。そんなことを感じさせてくれる一言でもありました。

我孫子と鎌倉を分けたもの

僕が小学校時代から大人になるまで過ごした我孫子は、今住んでいる鎌倉との共通項があり、北の鎌倉とも呼ばれた場所。その理由は、都心からほどない距離にありながらも湖沼を臨む情緒豊かな場所であり、鎌倉と同じ別荘地であり、白樺派の文人たちが拠点を構えたことに由来しています。

 


白樺派は、学習院の同級生が創設した芸術集団であり、志賀直哉、武者小路実篤、柳宗悦、バーナード・リーチ…なかなかそうそうたる顔ぶれです。ちょうど今、原田マハさんの『板上に咲く』を読んでいるのですが、世界的な版画家である棟方志功さんが芸術家を志すきっかけを創ったのは、雑誌白樺において柳宗悦氏が紹介した『ゴッホ』のひまわりに感銘を受けたことだったりします。

 


白樺派というのは大正、昭和期において最先端の芸術家集団であり、大きな影響力を持ったタレント集団だったわけです。最先端のアート集団が選んだ場所が、鎌倉ではなく我孫子だというのも興味深い。

 


実際に志賀直哉邸があった場所を見ると、戦後の宅地造成で見る影もなくなった我孫子の市街地において、鎌倉と同じような景色があったことがうかがい知れます。

 


ここは手賀沼公園からほどないところですが、昭和50年代前半に我孫子に越して来たときには、沼の汚染が激しく情緒の欠片も感じられませんでした。今は沼も綺麗になり公園も綺麗に整備され、少し当時の雰囲気を感じる事ができます。

 


我孫子と鎌倉を分けたものは、イギリスのナショナルトラスト運動を知る大佛次郎さんを中心とした自然保護活動にあります。これが無かったら鶴岡八幡宮の裏山はすべて宅地化されて鎮守の山はハゲ坊主になっていたはず。

 


僕の住んでいる谷戸においても聡明な知識人たちが、谷戸の景観を維持するために市と長い時間をかけて交渉を重ねてきた歴史があります。

 


同じような無計画な開発は日本中の至るところで行われたわけで、鎌倉というのは心ある人たちによって自然が残された奇跡的な場所であるとも言えます。ちょうど、先日旧華頂宮邸開放のボランティアの際に昔からこの場所に住む人たちと話をしたのですが、道の脇の側溝に蛍が住む小川が流れ、今時期はウグイスの大きな声が響いているこの場所、70年前から全然変わっていないそうです。

 


もし、我孫子において白樺派の文人たちがナショナルトラストを行っていたら、今は全然異なる景色が拡がっていたかもしれませんね。

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ランナーズトラブル

ランニングの目的はレースタイムではなく、生活の質の維持。ゆったり週一ペースを崩さないことが基本。体調や天候によってやむを得ずスキップすることはあっても、穴埋めはどこかでやる。

 


足や腰に関するトラブルにこれまで遭わなかったことが幸いしたともいえます。そこまで追い込んで走っている訳ではないですから。

 


しかしながら、先日は天候も体調も悪くないのにランニングを見送りました。右足の親指の付け根がずきずき痛むからです。前々から少し痛いところがあったのですが、柔らかいランニングシューズを履くと痛みはなく、走る分には問題なかったのです。

 


ところが先日、様々なところを歩き回ってナイトランをした翌日から足の甲が痛み始めいつもと様子が違います。

 


いけるかなと走り始めるも、家の前の坂を駆け下りると痛みが走ってだめな感じ。無理をして歩けなくなるのも嫌なので暫くロキソニンテープを貼って様子見です。

 


どうもこの症状は種子骨炎というものらしく、ランナーにはよく起こる症状みたいです。にしても、名前の通り小さな骨の炎症で走れないなんて…

 


サポーターとテープを付けて一週間。走ることはできるのかしら…

大家さんとの共通項

僕の鎌倉の家を貸してくださっているオーナーの方が、僕の家の隣の友人とともにお近づきになった印にと懇親の場を設けてくださった。

 


鎌倉らしいお店とのことで、鎌倉駅前にある田楽のお店。マスターは二代目で裁けた博識の女将。オーナーは先代の時からよくこの店に来たのだという。

 


場ではオーナーの学生時代のこと、仕事のことなどを色々と聞かせてもらった。経済人でもあり、文化人なので交友関係が広いこと広いこと。

 


野坂昭如さんとジャズフェスティバルを企画したこと、そこにはジャズトランペット奏者の日野皓正さんがいつも来るのだ…とか。学生時代の写真仲間は、三島由紀夫の薔薇刑の写真集を作ったのだ…

 


僕も子供たちも興味津々でいろいろお話を聞いたのだが、面白かったことがある。それは、オーナーとお隣さんと僕の3人を結ぶ共通点が笹塚だったということ。

 


オーナーと隣に住むTさんは20年来の笹塚に住む時からの友人づきあいだったのだそうだが、僕も小学校2年までは笹塚に住んでいたのですよ…と話すとどこに住んでいたんだ?と聞いてくる。僕が方南二丁目で、そこにあるT社の社宅でした…と答えると、知っている。自分の家はな…そこの裏から坂道をすこし上がったところにあったんだ…とのこと。

 


幼稚園は、宮代幼稚園に行って方南小学校でした…と話をしたら、自分の息子も宮代幼稚園だったなどという話になり、不思議な繋がりがあるものだ…と。

 


世代もバックグラウンドも全く違うもの同士が、家を貸借するという中で交流を持つということ自体がとても新鮮。人と人との繋がりが濃い鎌倉という土地ならではだなと思ったのでした。