人には様々な能力の可能性が埋もれていると思うわけです。自然に発露をしている人を人は「天才」と呼ぶわけですが、多くの人における能力は自然に発露するのではなく何かのきっかけで覚醒、発露することが多い。タイミングだって若い時に限らない。自分という存在を肯定し、機会を貪欲に求めていけば様々な自分を見出すことができるはずです。
よく、もう若くないから・・と自分の可能性に蓋をしてしまう人がいます。また、培った経験やスキルに限定した貢献をすることが「自分の人生」と決めてしまう人も多い。本当にそれが「自分の人生」なら、後悔は残らないと思いますが、やらないことの言い訳に過ぎないのならそんな事思わない方がいい。そもそも与えられたギフトを土に埋もれたまま放っておいてしまうことを神様は望んでいない。それが、タレントの語源になっている新約聖書 マタイ25章「タラントの教え」です。
一方で大概において人は愚鈍な存在であり、与えられたタラントを土に埋めたままにしておいてしまうもの。人の冒す4つの罪、①思い ②言葉 ③行い ④怠り の4つ目にわざわざ別格にして定義されているほどですから。
では、「怠り」を犯してしまうのが人というものであるならば、それをブレークするためには何をすべきなのか。そこにおいては、誓いを立てることでも、赦しを請う事でもない。ましてや目の前のことに懸命に取り組むことだけでもない。やっぱり、自分の可能性に期待をして新たな機会を託してくれる人に出会っていくことが一番のこと。人は出会う人によって変わっていくものだから。
でも、どのような人に出会い、その人と絡んでいくことになるのかというのは、どこまでいっても操作できるものではなく、その人の持つ「業」のようなものに左右されることも多い。それを宮本輝さんは「命の器」だと言っている。
~運の悪い人は運の悪い人と出会ってつながり合っていく。偏屈な人は、偏屈な人と親しみ心根の清らかな人は心根の清らかな人と出会いそしてつながり合っていく。
「類は友を呼ぶ」という ことわざが含んでいるものよりもっと興味深い法則が人と人との出会いを作り出しているとしか思えない。仏教的な言葉を使えば宿命とか宿業であったりする。それは、事業家にも言える。
伸びていく人は、たとえどんなに仲が良くても知らず知らずのうちに落ちていく人とは疎遠になり、いつのまにか自分と同じ伸びていく人と交わっていく。たくらんで、そうなるのではなく知らぬ間に そのようになってしまうのである。
抵抗しても、抵抗しても自分という人間の核をなすものを共有している人間としか結びついてゆかない。私は最近やっとこの人間世界に存在する数ある法則の中の一つに気が付いた。「出会い」とは、決して偶然ではないのだ。
でなければ、どうして「出会い」が一人の人間の転機となり得よう。どんな人と出会うかは、その人の「命の器」次第なのだ。(抜粋了)
この論に従うと、持って生まれた才能があったとしても、その人の「命の器」によってそれが花開くも、開かないも決定づけられてしまう・・ということになる。これは、全く面白くない。
であれば加えていきたいのは、小林秀雄さんの「人には偶然を必然に変えていく力がある」という考え。
精神の力には、外的偶然をやがて内的必然と観ずる能力が備わっているものだ。この思想は宗教的である、しかし(社会改良家が、人間の幸不幸のありかを外的偶然のなかに探そうとするように、)空想的ではない。
だから、自らの可能性を信じて行動し続けていく、し続けていくことが人生だと思ってもっていれば、そう思う人に出会い双発しあうことによって、人は変わっていける。何歳になってもね。その上でやっちゃいけないことは、慣れた人間関係の中で安住することを「選択」することなのだと思う。