物事における感受の深さと解釈の広さを持つ。日々を豊かに暮らしていく上では、この2つが大事なのだと思う。前者は感受性(レンズ・センサー)であり、後者は探究心(解析プロセッサ)というところになる。
両者は掛け算だから、どちらかだけ高くても果実は手にできない。絵や音楽を鑑賞したときに細かな色や音色を聞き分けたところで、それが意味するメッセージのコンテクストが分からなければ、符号としての意味以上の解釈は産まれてこない。
この映画はつまらなかった、この音楽は退屈だ…いとも簡単に片付けてしまう人においては、解釈するための基礎的な情報が決定的にかけていることが多い。
例えばヨーロッパの美術においては、キリスト教との繋がりが切り離せない。だから、聖書に書かれていることの一切が分からないのに絵画も映画も楽しめるわけがない。そして、そこに意味を見いだそうとする探求心がない限りは解釈の幅は拡がらない。さらにいえば本当の意味での解釈とは言葉に置き換えられること。
日々が退屈、いいことが何もないと嘆いている人がいる。そういう人においては、感受と解釈のプリズムが壊れてしまっている。だから、目に映るものすべてがモノトーンで平板に見えるのだ。でも、牢獄に押し込めているのは他ならぬ自分なのにね。だから、同情はするけど共感はできないのです。