Homare's Diary

組織人事コンサルタントの徒然日記です

勉強の罪

勉強は、江戸時代までは ①無理をする ②値下げをする という意味だったが、明治から勤勉、学問にはげむという意味に転じた。生まれた身分にかかわらず、身を律して学問を究めれば立身出世が可能になるのだという考えを反映したものだった。(日経 12/8)

学問が立身出世、成功を目的としたものであり、身を犠牲にして行う苦行なのだ・・という考えは、今なお引き継がれている。そして大きな弊害をもたらしていると思う。

前述の考えに則れば、学問をおさめた証である学歴を手にし、出世がある程度に約束されれば、学問をし続ける必要はなく。また、出世を諦めたら学問は不要なのだという考え方にも通じてしまうから。

本来、新しいことを学んだり、知るという事は人の根源的な欲求であり、苦行ではなく喜びであるはず。人が幼いころに急速に知恵をつけ、言葉を覚えていくのは、それが本来備わった欲求であるから。でも、どこかでその本質が変容してしまう。

大学卒業者の7割近くが大企業を選んだバブル世代。

熾烈な受験戦争を勝ち抜き、企業の選考レースを掻い潜って入った優秀な人材であるとも言われるけど。出世の可能性も閉ざされてしまった彼らの多くにおいては、学び成長することをとうの昔に放擲し、企業にしがみつくだけのお荷物社員になってしまっている事も否定できない。

学問を行う事が、「勉強」なんだという考えは、今の時代においては変えていかないと、知識社会の生産性は一向に上がっていかないし、学び知り成長する喜びというものを失くしてしまった不幸な人も減っていかないのだろうね。