Homare's Diary

組織人事コンサルタントの徒然日記です

不自由という福音

他人から自分のことを理解してもらえない。むしろ、断片でしかない一面だけを見て、あたかもそれがその人の全てであるかのような解釈をされてしまう。果たして、自分を理解してくれる人は世の中にいるのだろうか…

 


養老孟司さんはその状況にユニークな見方を与えます。

 


周りから受け容れられない。本当の自分を理解してもらえない。そういう人は、表現力が磨かれるのです。自分というのはこういう人間である…相手に合わせて自ら発信していかなくては、自分の居場所が作れないからです。でも、そのおかげで豊かな表現力というものを手にすることができる。いつでも周りに人がよってくるような人には、そういう能力は身につきません。その必要がないからです。

 


人の能力というものは、生まれ持って備わるものだけではなく、その人が置かれた状況の中で身につけざるを得ないことも含めて能力なのだということ。なので一見不自由で不条理に見えることであったとしても、その中で最適化を図ることで磨かれるものがあり、それは恵みであると言えるのでしょう。

 


例えば、僕は左利きであるわけで小さい頃から様々な不便を経験することになります。ドアの開け閉め、ハサミ、算盤、習字に剣道…

 

果たして、利き手と逆の腕を使うことによって両方の利き手が獲得されたりする。それは右脳と左脳の発達にも悪くはない。世の中に1割しかいない左利きの人がそれなりに能力を持てるのは、不便を強いられているからだと思うからです。

 


だから、何かの不具合や不自由があることは決して悪いことばかりではないということ。利き手の逆の使い方や表現力なんて、いくら学校で学んだところで身につくものじゃあないですからね。