中学や高校時代というのはアイデンティティもまだ確固たるものではないし、仮にあったとしてもそれを周りに押し出すまでの強さも持ち得ていない場合も多かったりします。
強烈なエゴがあったり、何らかに支えられた自己肯定感があれば素の自分を周りに出せたのかもしれませんが、そうでもないと仮初めの無難な自分に収まって日々を過ごすことになります。しかも、それでいて当の本人も違和感を認識できていなかったりします。
ですから、学生時代に見せていたその人の姿が、その人の地か…と言えば決してそんなことはないのです。そんな中で周囲に一度ネガティブなレッテルを貼られてしまうと、当人はそのイメージの檻の中から抜け出ることはとても難しかったりします。それは中高一貫校という環境がなせる残酷な一面であったりもします。
だから、6年間も近い距離にあったとしても、その人をよく分かっているように見えて、実はぜんぜん見えていない。大人になって異なる印象を受ける。それはごくごく当然な事なのかもしれませんね。
僕自身、素の自分でいたかというとそうでは無く。大学以降から自分らしさを取り戻してきたという自己認識があります。高校時代は、コンプレックスも強く鬱屈としており、そもそも自分自身が自分を好きでは無かったからです。
その後は自分を認めてくれた恩師や気付かなかった自分を引き出してくれた上司との出会いがあったり。会社を越えてリクルートの人たちと仕事をしたのも貴重な経験でした。僕にとってのライフワークを見つける出会いでもありましたから。。
引っ越しをしてご近所になったことで、実現した中高時代のクラスメートであった永嶺さんとの一つの話題は、学生時代とその後の違いが何ゆえに生じるのか・・それを舞台裏の立場から聞いてみるということでした。
同じ母校であり、その後は時期がずれるものの同じリクルートで働いていたという共通項もあります。環境と過程が自分にどう作用したのか。環境をどう捉えていたのか。クラスメートとの対話は、相手の言葉の中に自分を見つめなおす瞬間もあり、実に興味深いものでした。それは将棋の対局が終わった後に対局者同士で行われる振り返り・・「感想戦」みたいな性質を持ったものだったのかもしれません。