村上春樹『沈黙』
この小説は、ボクシングジムで出会った大沢さんという寡黙な人の独白を聞く僕の話。
『けんかで人を殴ったことがあるか?』という僕の質問に大沢さんは、計算高く人として狡猾な青木という男を殴った話を始める。
大沢さんが中学生の時に、たまたまテストで一番をとった折に『カンニングでいい成績をとった』という噂を常にクラス一位だった青木によって広められます。
ある日、青木を問い質した大沢さんは、「何かの間違いで一番を取ったからといっていい気になるなよな」と言って突き飛ばして行こうとした青木を反射的に殴ってしまう。
復讐の機会を虎視眈々と狙っていた青木は、後に高校でクラスメートとなった折に、その計画を実行に移すのです。それは、夏休み中に自殺をした生徒は、大沢さんに殴られていたという噂を教師やクラスメートに巧妙に広めることで。
誰も大沢さんのことを信じず、周囲の誰もが彼を遠巻きにして無視をします。大沢さんの精神的ダメージは大きく、情緒不安定となり食事もとれなくなります。ですが、寸前のところで踏みとどまります。
彼は、青木のことは吐き気がするほどいやでしたが、こう言うのです。
でも僕が本当に怖いと思うのは、青木のような人間の言いぶんを無批判に受け入れて、そのまま信じてしまう連中です。
自分では何も生み出さず、何も理解していないくせに、口当りの良い、受け入れやすい他人の意見に踊らされて集団で行動する連中です。
彼らは自分が何か間違ったことをしているんじゃないかなんて、これっぽっちも、ちらっとでも考えたりはしないんです。自分が誰かを無意味に、決定的に傷つけているかもしれないなんていうことに思い当たりもしないような連中です。
彼らはそういう自分たちの行動がどんな結果をもたらそうと、何の責任も取りやしないんです。本当に怖いのはそういう連中です。そして僕が真夜中に夢をみるのもそういう連中の姿なんです。夢の中には沈黙しかないんです。そして夢の中に出てくる人々は顔というものを持たないんです。沈黙が冷たい水みたいになにもかもにどんどんしみこんでいくんです。
考えるのです。自分は青木の立場になっていやしないか。最も怖い無批判に噂を受け入れその人物の評価を決め込んで決定的に相手を傷つけるクラスメートになっていやしないか。
小学生の時、大沢さんのような立場になったことがあります。当時、僕は陸上部で持久走の選手だった。各学校から代表選手は二人しか選ばれない。そのうちの一人でした。
もう一人は、才能豊かでとても敵うような相手ではなかった。小6で運動音痴だった僕は自分を変えたいと陸上部に入ったのですが、ちょうど身長が伸びていたこともあり、タイムがぐんぐんと伸びた。マラソンというシンプルなスポーツがあっていたのだとも思います。
もちろん代表を狙う選手は他にもいます。クラスメートのNもその一人でした。春先は、自宅に遊びに来たり、仲がよかった彼は途中から様子が豹変していきます。明らかに当たり方が敵対的になっていきます。
そのうちに、クラス全体の僕に対する様子が明らかに変質していきました。彼がある噂を女子に流したためでした。女子の陸上の代表選手であるKさんにこう言ったのだそうです。
「Iは、学年一位のKoなど大した選手じゃないと言っている…身の程知らずのいやなやつだ…」
Kさんは、Koに好意を持っていたようで、その気持ちを巧みについたのです。Kさんは女子のリーダー的な存在だったために、僕が無視されるのにさほど時間はかかりませんでした。
Nは僕が私立中学校受験を志していたことも気に食わなかったようでした。いわゆる男の嫉妬っていうやつです。でもこれほど質の悪いものもない。
教師の理解と心あるクラスメートがうちに僕に加勢したことで、四面楚歌の状況は半年で終わりを告げます。毎日のマラソンの練習と塾通いで、気持ちが紛れていたから良かったのですが、小学生においてはかなり厳しい経験でした。
誰においても大沢さんの立場にも、青木の立場にも、クラスメートの立場にもなり得るのです。そして、どの立場においても問題はあります。それは、相手を一方的に決めつけて判断する姿勢であり、相手の心を踏みにじる姿勢です。それは、大沢さんにおいてもなのです。彼の青木に対する理解もよく見ると偏っている。
だから、どの立場に立つまでもなく。相手の立場に関心を持って真実の理解に努めていくことしかない。
聴き手の僕は誰の批判も見方もしていません。大沢さんと最後にビールを飲みに行きませんかと言っているだけです。
タイトルが沈黙というのも簡単に誰かを声を上げて批判すべきものではない…ということを隠喩しているのではとも思うのです。