天才は秀才に興味がない
秀才は天才に妬みと憧れ
凡人は天才を理解できず排そする
天才は凡人から理解されたい
凡人は秀才を天才と勘違いしている
秀才は凡人を心の中で見下している
(天才を殺す凡人 北野唯我)
納得のフレームです。凡人は、創造性がないから過去に起きたことで物事を判断します。そして違和感を感じたものを排除しようとします。多数決というのは天才を殺すナイフというのはその通りだと。
人は、それぞれ創造性の種を持っています。それが摘まれていくのは、『協調性』の圧力にかかるからです。日本の教育は大方そうでしょう。そのくせ社会人になると『尖った個性』が大事だなんて言い出すのです。ムリだって。モンテッソーリ教育とかすごくいいと思います。
とはいえ本当に『尖った個性』など組織においては迷惑で、飼い慣らされた尖りを求める。秀才というのは、飼い慣らされた創造性を持たない人たち。論理性に長けた彼らを天才だと捉え、上に祭り上げる組織は発展しない。働く人も元気をなくしていく。
秀才は類い希な自制心と忍耐力で相対的な上位に上り詰めており、凡人は怠け者だと見なして馬鹿にしているから。秀才は、感情に関心がないのです。
小さい頃は、『協調性がない』『情緒不安定』という評が定番。べき論満載の女教師とは殊に相性が悪かった。通信簿では学業より、行動評価の成績でいつも母親に怒られていた。机を教卓の横に出されたり…
僕は天才ではないから、そういう仕打ちはさすがに堪えた。うちに奇抜な行動は抑制できるようになり、学級委員なども務めたのですが。期待を意識して行動しているより、自分基準で動いている方が周りとの摩擦は起きるものの、自分の才能を発揮できているという実感があり。大学以降は周りの目は気にすることをやめたのです。結果はよかったと思います。会社も自分の個性を活かしてくれる場所を選んだ訳です。
コンサルティング会社には、本当に尖った人が多いのですが、秀才タイプは多いです。そして、秀才になれないゆとり教育の凡人には、間違いなく向いていない。
狭い世界はどうでもいいとして。引いた視点で見れば、それぞれが持ち味があるのです。互いが対話を重ね理解とリスペクトをどう持てるかなのでしょうね。