「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量(はか)る秤で量(はか)り与えられる」
マタイによる福音書 第7章
他者の欠点や問題ほど良く見えるものはありません。これを指摘したり、裁くなら同じように自身も裁かれるわけです。
人間という存在は、そもそも不完全なものです。誰においても長所と欠点がある。だから一人では生きられない。目につく欠点と見えるものは、指摘しようとする人において不得手な領域であったり、配慮を行いがたい状況にあることも少なくありません。多くの場合は、動機善なりの結果。池井戸潤の小説に出てくるような分かりやすい悪なんてほとんどないのです。
ですから、その事象だけを切り取り裁きを行って一体何が生まれるのでしょう。下手をすれば、自身の盲点だった欠点を裁かれるだけです。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず石を投げなさい。
ここでいっていることも全く同じ。イエスは愛をもって赦すことを説いているわけですが、裁きを行いたくなる人は、ある意味で自己愛だけで隣人愛のない人だともいえるでしょう。
でも陥りがちな罠はわかるのです。相手のことを知ろうとしない、相手の様子から言外の様子を察しイメージを持っていく、簡単に言えば共感力の欠如なのです。
いくら頭がよく論理が明快でも、人の痛みがわからない、むしろ分かろうとせずに人を裁くことに執心しているって、大人としてかなり残念なこと。
「親からちゃんと愛されているのに、親たちの小さな欠点が見えてゆるせなかったこともありました。いま私はちょうど逆の立場になって、私の若いときによく似た欠点だらけの息子を愛し、めんどうな夫がたいせつで、半身不随の病気の母にできるだけのことをしたいのです。」
「これはきっと私が自分の力でこの世をわたっていく大人になったせいだと思うのです。大人というものはどんなに苦労が多くても、自分のほうから人を愛していける人間になることなんだと思います。」
-いわさきちひろ おとなになること
ちひろさんは、本当に素晴らしい言葉を残しています。この通りなのだと思うのです。