Homare's Diary

組織人事コンサルタントの徒然日記です

メタバースのビジネス活用

メタバースを活用した人材領域系のサービス展開を図っているのだが、知見を聞かせてほしいのだ…ということであるメディア企業とディスカッションをしたのです。

 


メタバースは、アバターで自身を覆い隠しながら、仮想現実空間で交流するものです。『自身を覆い隠す』『多様な人と交流する』という要素でメリットが出る状況を踏まえないといけません。

 


メタバースは、相手の顔、もっといえば表情や目つきといったところのノンバーバルコミュニケーションが成立しません。むしろフェイクができます。それが良いとする状況だったら利点があるので、かなり局面は限定されます。なんでも仮想現実で置き換えればいいという訳じゃあないのです

 


ゲームのように感情など脇で、多様な仲間と目的を果たすものは明確に向いているのです。一方で企業研修でグループワークをするのであれば、年齢、性別、役職の差を飛び越えて交流した方がよいもの。ビジョン共有ワークショップとか、チームビルディングアクティビティとか。就職局面だと、企業と学生のマッチングイベントだったり。仮面舞踏会が成立するものだけです。

 


恋愛マッチングだとどうなのでしょう。年齢を超えて気の合う相手と仮想空間でデートなんて面白そう。仮想現実のホストクラブの売れっ子キャストが、ベッドで寝たきりのお爺さんだったりしてね。ビジネスユースだと相当にニッチな領域だけな気がしますが、対面だと過度に忖度する日本人においては仮面舞踏会で本音のコミュニケーションする必要もそれなりにあるきもします。

 

満を持して

何か新しいことを始めていくのに、条件や閾値なんてないのかもしれない。結局それは新しいことを踏み出す不安や恐怖を正当化しているに過ぎなかったりもする。

 


新しい機会には積極的に踏み込んできたと思うのだけど、リクルートで働くことを意思決定するまでには6年かかった。30代半ばでHRにコンバートしたズブの素人がここで通用するとはとても思えなかったから。

 

 

 

リーマン後のコンサルティング業界は、完全に干上がっていた。そして、長駆で熱心に口説いてくれた人の熱意があった。ようやくリクルートの敷居をまたいだ。臆病だったかもしれないが、6年の時を持って身をもって学んできたことは、全方位の対応が要求される新規事業の立ち上げという局面では、大いに活きることになった。6年の経験が無かったら、とても耐えられなかっただろう。

 


時代は巡り、当時一緒に働いていた社長の銀さん、室長の黒さんと同じ年齢になった。何もない環境にサービスを立ち上げていく責任者として。

 


若くして組織を立ち上げる人もいる。でもスロウスターターな僕においては、今が頃合いだったのだろう。考えてみれば、出発点は大学1年の時に経営史で学んだシュンペーターの起業家精神だった。しかし、学んでから実践まで我ながら時間かかるわ…

専門家といっても千差万別

専門性を獲得したいと考える人は多い世の中。専門性があれば、組織に縛られずに生きていけるし、稀少性のある専門性を獲得すれば収入だって増やしていける…

 


でも専門性というのは、あくまでも結果論としての状態。問題は確立された専門性という山への登り方。もっといえば、合っていない登り方を要求される山には登ってはいけない。

 

 

 

アカデミックな専門性を目指したい人は、綿々と同じ地を耕し続ける学究の場にいた方がいい。コンサルティングなんてのは専門性がないのに、思考の瞬発力と学習力で必死で解決策を身につけていくことで結果として出来上がる専門性。場合によってフリークライミングのような山登りになってしまう。

 

 

 

結果として山の上に立てるのかもしれませんが、ある程度の道ができた山を登っていくのと、道を自分で探しながら登っていく山登りとでは、適性や志向性も大きく分かれますよね。

 


最近、専門性という言葉に誘蛾灯のように釣られてやってくる人を見るたびに、違うんだけどな…と思うのです。

 

期間限定お見合い結婚

僕は日本のエンゲージメントが諸外国に比して低いのは、目の前で取り組んでいる仕事を積極的に自身が選択したのではなく、会社に便宜的に与えられたに過ぎない状態にある人が多いからだと捉えています。

 


エンゲージメントは、結婚の約束でもあるのですが。総合職という冠を載せた人たちは、会社が世話をした仕事であれば、相手が誰であろうが添い遂げなくてはいけません。ようやく馴染んで愛着が出てきても、辞令一枚で関係解消です。

 


それはまるで、期間限定のお見合い結婚なのです。それで、相手を心から愛せよとかなかなか難しいことを言うわけです。

 


僕は自分の感情や特性を基軸に、人も仕事も恋愛結婚でなければ、添い遂げる自信なんてもてやしない。無論、会社と終身添い遂げる気持ちはないけど、取り組む仕事は自分の目と心で選んで添い遂げたい対象。

 


総合職という会社のためなら、どんな色にも染まることを要求されるなんて、昭和時代の親が決めた見合い結婚と思想が一緒。関係が組織が上で個人が下なんだよね。この根本の仕組みのおかしさを棚に上げて、エンゲージメントをあげたいなんて無理だよね。

 

 

 

先日、GPTWの荒川さんと意見交換をしたら、日本のエスタブリッシュメント企業は、スコアが軒並み低くなるのでアピールにならず、離脱してしまうといっていたけど、そうなるよね。統一教会の合同結婚式みたいに、組織に盲目的に忠誠させない限りは、エンゲージメントの向上なんて成り立たないと思いますね。

ランニングシューズ

今シーズンラストの佐倉マラソンは、前半こそ良かったものの雨の降りが激しくなった後半はペースが落ち。僕としては全く不本意な歩きやストップを余儀なくされてトータルタイムは3:49:40。

 


もし、キチンと走り切れていれば12月の湘南国際より間違いなく速く走れたはずなのですが、それが実力というやつ。しかも、右足の親指の爪をやられてしまい。風邪までもらってしまったわけで。今週は、大人しく過ごすことになりました。

 


爪をやられるというのは、シューズの大きさが合っていないということなのですが。今シーズンは、アシックスに新調して臨んだのですよね。これまではずっとNIKEだったのですが、ふと切り替えてみようと思い。これが完全に裏目。湘南では左足中指の爪をやられたわけで。

 


正確に言えば、寒いコンディションのハーフなら問題がなかったのですが。温度の高いフルだと足がむくんで合わなかったということ。NIKEに戻すか、最近気になるHoka one oneにするか…世の中カーボンプレート入りが流行なので、試してみるか…

 


非日常的フルマラソンは、しばらくお休みなので。一喜一憂もなんですね。

変革力と開放性

現状を是とせず、改善工夫、新たなやり方を探していこうとする。様々な情報に対してアンテナが高く、積極的に新しいやり方を取り入れることを試みる。

こうした行動は「変革」のベースとなるものであり、多くのビジネスパーソンにおいて必要とされている力といえます。

ですが、「変革力」ほど身につけにくい力はないといえます。知的好奇心や想像力、冒険心、芸術的な興味、情熱といったものは、人の性格を構成する五因子モデルの「開放性(=Openness)」に依存するのですが、この「開放性」というのは、20歳前後までにほぼ形成されてしまい、その後はほとんど伸びていかないからです。しかも50代を過ぎるとこの能力は頭打ちでもあったりします。変革において「老害」は数値で実証されているのです。


協調性や精神的安定性、外向性といった力は、年齢とともに伸びていくのに、この開放性というのは年齢とともに伸びないのです。


このデータを踏まえていけば、イノベーションを求める人材を求めるのであれば、研修などを行うことはほぼ無為に等しく、開放性の高い人材を採用・発見し、組織の中に留めておくための工夫をするしかありません。このことをよく知っているGoogleにおいては学歴や経験といったことを能力証明の拠り所とせず、開放性の有無を確かめるための採用を行います。そして、飽きっぽくて好奇心旺盛な「開放性」が高い人物を退屈させないための工夫を行うことに腐心します。


開放性が20代前後までしか育まれないことを理解していれば、打てる手は「教育法」にしかありません。世代で画一的な教育を行う日本のシステムは「開放性」養成においてはマイナス。モンテッソーリ教育などに変えていかなくてはいけないのですが、文部科学省の指導方針は、富国強兵、工業化社会における均一な人材育成システムから脱却できておらず、イノベーションという観点で日本が今後も引き離されているのは、ある面で当然のことといえるのでしょうね。

 

 

ラブレターの効用

好きになった相手に自分の気持ちや人となり、考えを伝えていくためには、言葉しかない。面と向かって表情で伝えるということもあるのかもしれないけれども、面と向かって本当の気持ちを伝えるというのは案外難しいものだ。

 


そして、いざ伝えようとしたときに持ち合わせの言葉がいかに少なく、そして自己の人となりを理解してもらうに相応しい日常の瞬間や話題というものの乏しさに愕然とするもの。

 


果たして、物事の解像度を上げていくための言葉の引き出しを増やし、観察眼を磨き、出来事や想いを表現するための力を磨こうとするのは人としてごく自然なことなのだと思うのです。

 


万葉集、古今和歌集…短い文章に叙情を込めていく。文を綴る文字の美しさと詩歌の表現にその人物の価値を見るというのは、ビジュアル重視の今の時代とは大きく違うのでしょうね。

 


インターネットがない頃。パソコン通信黎明期にNifty-ServeとPC-Vanの2つに入っていたのです。そこには趣味嗜好の似た人が出会うフォーラムがあり、そこで知り合った山形県に住んでいる女の子と1年越しに文通を交わしていました。

 


「自分が思う何か」を言葉で伝えることができるというのは、それ以上でも以下でもなく、ただそれだけで心を満たせることを日々実感したものです。そして、何気ない日常を観る目も、それを表現する言葉も少しずつ養われた気がします。

 


今は、スタンプなどを駆使すればそれなりに気持ちを簡単に伝えることができるけど、人の心を動かす解像度の高い表現力はきっとそこでは養われないよね。言葉の拙い若手のスタッフのもどかしい表現を聞くたびに、ラブレターを毎日書きたくなるような女の子と恋愛をすればいいのに…と思うけど。今の人は長文のラブレターもメールも書かないのだものね。