Homare's Diary

組織人事コンサルタントの徒然日記です

メトロポリタンを走るということ

最近、夏場のランニングがしんどいなと思うことが度々あります。猛暑日が記録的な今年のコンディションが一番大きいと思うのですが、走っているコースが変わったことも大きいと思っています。

 


目黒にいたときには、駒沢オリンピック公園がメインでした。駒沢公園は木々が多く日中帯でも木陰があります。林試の森に隣接していた自宅でも明らかに感じたことは、樹木があると温度が低く心地がいい空気が流れているということ。

 


隅田川テラスは、ライトアップされた眺めは抜群なのですが、コンクリートウォールに囲まれた川沿いは風もあまり流れておらず、照り返しの熱も冷めない路面は夜でも熱いのです。多摩川とはずいぶん違います。

 


その意味では皇居の方が空気はよかったりします。夜は三宅坂あたりは暗く、路面がフラットじゃないので慎重に走る必要がありますが。(うっかり転倒するとかなりの代償を払うことになる)

 


銀座や日本橋に近いのは良いけど、夏場は屋内でショッピングみたいな過ごし方になるわけで、自然に接する機会はまずない。これは、感受性の豊かな幼少期からしていたら、昆虫も触れることのできない不自然な人に仕上がりますね。

 


移住先の家の設計をお願いしている茅ヶ崎工務店。駅は東海道線の辻堂ですが、東京駅から辻堂駅を降りると、いつも風が心地いい。実際に気温も2度ほど違います。葉山、逗子、鎌倉、茅ヶ崎は昔から避暑地であった訳ですが、その傾向は都心のヒートアイランド現象の加速に伴い顕著になっている気がします。

 


来年の夏は、もうこんな灼熱の都会では走ることもないし、走りたくもない。東京生まれだけど根が田舎者の人間には、自然との一体感を感じられない都心はダメだわ。便利でいいけど、何か根本的なものが欠けている気がします。

美徳の躓き

昔から組織の中でいくらポジションが上になろうが、家庭を顧みずに愛人を囲うような人間は侮蔑の対象でしかない。

 


会社の金を使っての長期出張を愛人帯同で行う。奥さんも息子さんもいるのに。そんなことをする輩は人としての風上にも置けない。

 


新卒入社した会社のトップとナンバーツーは、仕事ができるという次元とは別に先の行動から侮蔑の対象以外のなにものでもなく、退職を告げた際に受けた彼等からの引き留めの言葉も僕の心を何ら打つことはなかった。

 

 

 

組織・人事を専攻すると、その思いはますます強くなった。組織力とかリーダーシップとか偉そうなことを言う癖して、食事を支度して待っている人や子供がいる家に帰らず、独身者を引っ掛けて飲み歩く。外面だけ家庭を大事にしているように装う。人材のことを突き詰めて考えると、それは家庭での親子関係や教育に突き当たるのに。社内不倫などしていた日には侮蔑を通り超えて俗物の極み。

 

 

 

在るときの上司がまさにそういう行動を行っており、さらには相手の女性から僕が信頼を得ていたからと、仲を取り持つ依頼までされたのは、なんとも皮肉な運命のいたずら。

 

 

 

女性にうつつを抜かすようになってから、上司は明らかに気もそぞろで仕事をまともにやらなくなっていた。おおよそカルチャーフィットをしない後釜の人物を雇い入れ、マネジメントはほぼ丸投げ。それを見ていた僕は上司とはいえ、そんなくだらない要望を受け入れるはずもなかった。

 

 

 

紆余曲折で二人は同棲はしたものの、最終的には破局。男も男だが、不倫に走らせ相手が家庭まで捨ててまで一緒になったのに、過去から決別し、心のすべてを独り占めしないと気が済まないという女性も同じ穴のムジナ。最終的に不倫が発覚して、上司は地位をも失うことになった。

 


下劣な輩とはいえ、悪い女に引っかかった可哀想な人なのかもしれない。その女性は、ステディとして選ぶ相手においては、到底自分とは相容れないような人を選び、それで不幸な状態に陥ると今度は妻帯者の男性を好きになるという、魔性というか周りを不幸に突き落とす人であったから。

 

 

 

その一件で気づいたことは、生き方の美学というものとは別に、誰かに好意を持つというのは病にかかるようになるもので、魔性の女とは真反対にいる人間が、却ってその好意の対象にもなるということ。侮蔑の対象であった上司は、僕より先に石に躓いただけ。僕は運が良かっただけかもしれない。

専門性の勘違い

自分はこれが得意だ、やったことがある…

 


人は変化を嫌う生き物ですから、経験済みでできることに執着する気持ちがどうしても生じます。ただし、仕事においては経験済みで出来ることだけ要望されないのもまた事実。ましてや困難な問題を解決することで対価を得るコンサルタントともなると、既知のお題じゃないことなんてしばしばあります。というかそんなのばっかり。

 


そこに好奇心と可能性を見出して取り組み、中で自分を成長させようという志向性や覚悟がある人以外は、やっちゃいけないし向いてない仕事なのだと思うのです。

 


コンサルタントという仕事がメジャーになるにつれ、どう見ても合っていない人に遭遇するケースがよくあります。

 


学歴レベルでいくとそこそこ高い。でもそういう人においては、やりたくない理由を仕事の中身やクライアントのスジの悪さなどに言いがかりをつけやろうとしない。駆け出しなのにこのテーマは学校で学んだことがない、エクセルは苦手だから…とか。

 

 

 

YKKの創業者である吉田忠雄さんがいうところの『なまくらもんのごたむき』です。下手に学問を修めたが故に、できない理由ややりたくない理由のご託だけを立派に並べる怠け者という越中の表現です。

 

 

 

こういうことが起きてしまう理由は、『専門性』という言葉に釣られてこの仕事を選んでしまうから。専門性とはいえど、特定の領域だけを深掘りしている研究職やアーティストとは性質が違うことをまるで分かっていないのです。

 


加えるならば、失敗することが怖い、予測不能な物事に対する耐性の低さです。ここについては、幼少期や学生時代に育まれる『ベーシックトラスト(自己肯定感)』の低さであることも多い。

 


こうした要因で生じているミスマッチは、いくら動機付けなどをしたところで決して解消することはありません。採用の時点でしっかり見極めていかないと駄目なんですよね。

社会的包摂の影

社会的、経済的、精神的な弱者においては、法の名の下の抑止力が全く効かない。失うものが何もないから。そういう人をひろゆきは、『無敵の人』と言っています。

 


これと同じことを三島由紀夫も言っており、『この世で一等強力なのは愛さない人間だね。そういうものには手の施しようがない』と述べています。

 


無敵の人はなぜ生まれてしまうのか。それは、社会的包摂が進んだことの暗部だと岡田斗司夫は言います。

 


かつてそういう人は社会の中でつまはじきにされて、生き残っていくことができなかった。一方で今の世の中では何とか生きていくことは出来るようになった。ただし、生きていくことはできるが活かされているか…というと話は全く別次元になる。むしろ、包摂が進んだ現代ならではの新たな問題が浮上していると言っていい…という趣旨のことを言っています。(いささか過激な思想だととることもできます)

 


活かされていない人のごく一部においては、世の中に絶望し自己の存在証明をするための劇場型犯罪に走る人が一定の割合で出現してくる。

 


物事すべてが丸く収まるなんてことはなかなか口で言うのは容易いけど、現実問題はいかに難しいか…と思わざるを得ません。そして、劇場型犯罪を起こすのはいつの世でも男だったりする。孤独を抱え、人との関わりも持てない、むしろ人の輪から取り残されてしまった人はどこに救いを見出せば良いのでしょう。

 


この観点で見るとカルトといえど、一定の役割を果たしているとも言えます。何事にも光と影があり、社会的な包摂が進めば進むほど、活かされていない人たちを包摂するコミュニティが増殖するという構造なのかもしれません。

 


結局、どんな世の中においても光があれば影があるということ。そして、影だけをみて良し悪しを判断するというのは、非常に簡単だがそればかりで片付けることはできないということです。

年齢差別の人事制度

リクルートでミドル・シニアのキャリア自律支援事業を立ち上げに参画したとき、僕は40歳でした。ファーストクライアントは定年延長・廃止を検討していたA社、セカンドクライアントはバブル期入社世代を大量に抱え業績低迷に喘ぐB社でした。

 


B社においては、ミッショングレード導入した際に役職定年を撤廃しました。2000年中盤のことです。一方で年功的制度運用でミッショングレードを運営したために、大した仕事でもないのに課長、係長クラスに大量の社員が偏在していました。

 


本来は、評価で序列をしっかりつけた上で、降格、昇格を出現させるのが王道ですが、その会社においては役職定年を復活させる選択を取りました。厳格な制度運用をできる力が自分たちにはないし、時間もないというのがその理由でした。

 


結果として、課長クラス53歳、部長クラス55歳という役職定年が導入。分岐点となるキャリアを手前で考えさせよう…早期退職を促進させたいという趣旨で48歳でキャリア研修が行われることになりました。

 


B社においては、その後業績が復調しキャリア研修の目的や内容が変わりましたが、役職定年は依然としてそのままです。

 


当時の僕は53歳という年齢を彼岸のことのように見ていたわけですが、いざ自分がその年齢に差し掛かると、いかに非合理で理不尽な仕組みなのかを感じざるを得ません。

 


いくつか理由がありますが、

 


①役職定年は新卒一括採用・年功的昇給をアジャストする仕組みであり、中途採用・ジョブ型雇用と相容れない仕組みであること

②人の能力格差は年齢と共に拡大するものであり、一律的に処遇を変更することは、優秀者の切り捨てになること

③単純に年齢差別であること(米国などでは法的に禁止)

 


というところでしょうか。

 


少なくとも役職定年が入っている会社においては、中途採用で明らかに不利になるし、優秀な中高年層の力を引き出すことの弊害になるということを明確に自覚した方が良いと思うのです。

 


一方で、役職定年は運用が極めて楽であり、人事部のガバナンス力や変革力が低い会社では、選択せざるを得ない。

 


少なくとも役職定年を導入している会社の人事部の方は、このおかしな制度をなぜ自分たちが選択しているのか、せざるを得ないかを明確に言語化できるようにした方がいいと思うのです。もっといえば定年制だって同じことです。

 


毎年毎年、厳格な評価が行われDead or Aliveが決まる仕組みならば、役職定年、定年制もキャリア研修も必要はない…と僕は考えています。

自分らしく生きることの危うさ

人はみんな、それぞれに役割を与えられて生きています。その役割をこなすことと、自らに正直であることは必ずしも一致しません。というか一致しないことの方が多いかもしれません。人は多かれ少なかれ、その不一致をうまくすり合わせながら生きています。

 


でもときどき、そのすり合わせに疲れてしまいます。それはよく分かります。

 


じゃあ、自分に他にどんな役柄の選択肢があるのか?普通の場合、あまりないですよね、たぶん。だとしたら、与えられた役柄を不足なくこなしている自分を客観的にテクニカルに分析し、愛する(あるいは愛おしむ)ようにつとめるしかない。それを一つの個人的達成として捉えるというか、自らに正直な自分だけ愛していると、人生はいささか薄く、一面的になっていくんじゃないでしょうか。(村上春樹

 

 

 

自分の中に埋もれた可能性は、他人の要望や当てられた役柄によって引き出されるものも多くあります。

 


それをハナから否定してしまうと、表出した能力と経験だけで生きる人なる。それは本人の人間としての厚みや成長機会を奪ってしまい、仕事の可能性も狭めてしまう。ひいては、他人に貢献することで得る自己肯定感も下がってしまう。

 


自分らしく生きることが、活力を持って生きる自分に繋がるかというと決してそうではないと思うのです。むしろ、与えられた役割と自分らしさをない交ぜにした自分を愛していくことが大事なのでしょうね。

カルトのロジック

世の中というものは自然であり、それぞれがあるがままに存在している。そこに対して良いも悪いもないのが原則。

 


一方であるがままの状況に対して、ある一定の尺度で物差しを当てはめると、良い状態と悪い状態というものが生まれてきます。さらには悪い状態とするものにおいては、必ずそれを生み出す原因となった悪がある。しかもそれは前世の悪などに根源はあり、そこに贖罪をしていくことが、救われるための唯一の道である…という解釈をする人が現れます。

 


そして時間なり財産なり肉体を贖罪のために捧げれば、現世か来世で必ず救済されるのだという教義が登場してきます。カルト教団の根底思想はすべて一緒です。

 


あるがままの状態に物差しを当てはめ、さらにはそこに因果律というものを持ち込み、因果を変えようというのは、全てに因果や意味を求める人間のエゴでしかない。いくら現世で善を積んでも早世する人はいますし、経済的な成功を収められるわけでもない。しかも他律のパラダイムに預けて上手くいくわけなどない。

 


神は自らを助くるものを助く。神様は自分自身のなかにある。そして、神様は基本的に『沈黙』なものであり、自問自答、内省を繰り返して最善を尽くしていくことしかない。報われるということを期待せずに。

 


これは宗教というよりも哲学になってきます。哲学は基本的に過去や他人を変えるものではなく、自己の考えと未来を変えていくための学問です。自律自助の考えといってもいい。

 


一方で自律自助の厳しい道を歩めない…他律救済に流れてしまう人が多いのも事実であり、そういう人を束ねる人がいつの世でも出てくるのだ…ということを思わされます。