Homare's Diary

組織人事コンサルタントの徒然日記です

社会的包摂の影

社会的、経済的、精神的な弱者においては、法の名の下の抑止力が全く効かない。失うものが何もないから。そういう人をひろゆきは、『無敵の人』と言っています。

 


これと同じことを三島由紀夫も言っており、『この世で一等強力なのは愛さない人間だね。そういうものには手の施しようがない』と述べています。

 


無敵の人はなぜ生まれてしまうのか。それは、社会的包摂が進んだことの暗部だと岡田斗司夫は言います。

 


かつてそういう人は社会の中でつまはじきにされて、生き残っていくことができなかった。一方で今の世の中では何とか生きていくことは出来るようになった。ただし、生きていくことはできるが活かされているか…というと話は全く別次元になる。むしろ、包摂が進んだ現代ならではの新たな問題が浮上していると言っていい…という趣旨のことを言っています。(いささか過激な思想だととることもできます)

 


活かされていない人のごく一部においては、世の中に絶望し自己の存在証明をするための劇場型犯罪に走る人が一定の割合で出現してくる。

 


物事すべてが丸く収まるなんてことはなかなか口で言うのは容易いけど、現実問題はいかに難しいか…と思わざるを得ません。そして、劇場型犯罪を起こすのはいつの世でも男だったりする。孤独を抱え、人との関わりも持てない、むしろ人の輪から取り残されてしまった人はどこに救いを見出せば良いのでしょう。

 


この観点で見るとカルトといえど、一定の役割を果たしているとも言えます。何事にも光と影があり、社会的な包摂が進めば進むほど、活かされていない人たちを包摂するコミュニティが増殖するという構造なのかもしれません。

 


結局、どんな世の中においても光があれば影があるということ。そして、影だけをみて良し悪しを判断するというのは、非常に簡単だがそればかりで片付けることはできないということです。