Homare's Diary

組織人事コンサルタントの徒然日記です

見合いでエンゲージはできない

見合いによる結婚ではなく、自由恋愛に基づく結婚がいいと考えている人は大半であるかと思います。真子様だって自由恋愛に基づく結婚を貫かれた訳です。

 


ところがです。仕事選びにおいては、日本人の大半は見合い結婚なのです。企業という仲人に選んでもらった仕事と刹那に結婚しているようなものです。この不思議な慣習で仕事をしている人が多いから、日本のエンゲージメントのスコアは低いのだと思うのです。

 

 

 

エンゲージメントの語源は「エンゲージ(engage)」であり、"婚約する"くらいお互いに尊敬し合い、愛着心を持っていることを指すのですから、自分のこともよく知らない第三者に定期的にあてがわれた仕事を心から愛するのは結構難しいことだと思うのです。プロの芸者が客を愛するがごとくですね。

 


周囲の賞賛や上司マネジメントでエンゲージメントが上がることもあるでしょう。でも、本当に好きな相手と結婚できたのであれば、その相手と一緒にいることに感謝こそすれ、気の利いた言葉をかけてもらえるとか、そんなことはどこまでも副次的なはず。そして自分で覚悟を決め愛着心をもって仕事をしていれば、上司はヘボだって仕事は上達していくもの。なんでもマネジメントのせいにすると最後に喜ぶのはご利益のない研修を提供する研修会社くらいなものです。

 

 

 

職業選択において、見合い結婚ではなく自由恋愛による結婚ができる、失敗しても何度でもやり直せるようになればエンゲージメントは必然的に上昇していくと思ってます。もちろん、初婚でいい結婚などできるはずもなく、何度かの"離婚"を経ての結婚でです。ドラッカーさんもそういうものだと言ってますしね。

イージーホビー

大型連休になった今年のGW。まとまった時間がないとなかなか手を付けられなかった自転車のメンテナンス。スリックタイヤとブレーキパットの交換。タイヤの摩耗を放置しているとパンクの原因になりますし、ブレーキパッドも購入以降一度もしていなかったので、そろそろやらないといけない・・と思いつつ。


メンテは無事に完了。自転車のメンテナンスは、車と比べて部品代が安い。車ですとタイヤ一本安くて1万円くらいしますからね。自転車なんてせいぜい2000円程度。ブレーキだって5万くらいは車だとかかるけど自転車は1000円。コンピューターとかエンジンがいかれた日には、万札が何枚吹っ飛んでいくんだか・・


それを考えると車って贅沢品ですよね。ガソリンも税金も結構高いし。自転車、時計、ヘッドフォン、万年筆、カメラ、ランニングアイテム・・これらの趣味にかけるコストを車は簡単に凌駕してしまいますもの。しかも、そこまで車に凝る質でもないからね。(日常の足だと思っています)


とはいえ、自転車やランニングという趣味を楽しみ続けるためには、健常な体とスタミナをキープし続けておく必要があります。車で言うところのエンジンは自分の体ですから。ゴルフとか車というのは、体なんてそこそこでギアにお金をかければなんとかなりますものね。

あの子が住む家

新川に引っ越しをし、日曜礼拝のある碑文谷教会まではぐんと遠くなりました。電車を使っても、自転車でも約40-50分。自転車で12キロとなるとなかなかな距離なのですが、やっぱり移動には自転車を選んでしまいます。土曜日ルーティンの20kランニングの翌朝はちょいと疲れが残っていたりするのですが…

 


教会までの道のり。目黒駅から行人坂を下り、山手通りから目黒不動尊に入り、羅漢寺緑道を抜けていきます。その途中にはついこの前まで自宅だった家が道沿いにあります。

 

 

 

窓にあつらえたプランターには、奇麗に花の咲いた鉢植えが並んでいます。僕が使っていた寝室の窓際にはマトリョーシカが4つキチンと並べられています。買主さんはとてもこの家を気に入ってくれていたのですが、大事に使ってくれている感じが伝わってきます。

 


家を見て胸に湧き上がる感覚…昔にも味わったことがある…

 


それは、小学生の頃に好きだった子の家の前を通ったときのあの感じです。違うのは、その子が家の中から出てこないかなあ…と期待をすることでしょうか。

 


家を移り変わり、時期を程なくして愛車もスクラップになってしまったわけですが、この家はずっと残っていてくれそうです。

プレイニューゲーム

新しい環境にジョインをしてちょうど1年。立ち上げの役割としてサービスを作り、クライアントを創る。分かっていながらなかなかタフだったりします。

 


ゼロからの立ち上げは昔もしています。乗り越えたときの達成感は大きいものがありましたが、序盤は暗闇の泥濘の中を歩くかのようでした。

 

 

 

基本は楽に楽しく暮らしたい人間です。でも昔取った杵柄で同じことを続ける毎日も退屈で嫌。たやすく仕事が得られても、同じ落としどころしかできないとか。自分よりパフォーマンスのいい人の足を何癖つけて引っ張り、自分の立場を誇示するような同僚にもこりごり。

 

 

 

ここは、大手ファームから出てきた人がほとんど。同じことを繰り返す拡大再生産のパラダイムではなく、面白い、新しい仕事を求めている人たちが集まっている。立ち上げの大変さも知っている。余計なことを考えず、結果を出すために全力を注げばいい。

 

 

 

まだまだ頂上は遠い。せいぜい2,3合目というところ。楽にいける選択肢もあったわけだけど、不確定要素が多く冒険できる環境の方が僕の性にはあっている。

 


選択肢の一つだった丸の内にある会社。上級調査役なんていう大層な役職。でも人事制度オンリーで役職定年があったりする。コテコテ日本企業ですね。

 


妻はこういうキチンとした所の方が良いじゃない…休みも多くて会社も大きくて安定してて…なんていっていたのですが、僕の柄じゃない。セットアップスーツより、デニムにギンガムシャツ。役職定年とかある会社は中途の人間が入るにはアンフェアなゲームフィールドですからね。

突然のおわかれ

人が作ったものは遅かれ早かれいつかは壊れる。とはいえ長年連れ添ってきたモノとの別れというものは、心に喪失感を伴う。しかも、その最後に立ち会えなかったともなるとなおさらだ。


その連絡は突然にやってきた。電話の主は、ハワイからビザ更新のために一時帰国していた義理の姉。子供と中央高速府中インターの出口手前で車が動かなくなったのだという。ボンネットから煙を吹いて、再始動も効かないのだという。


シングルマザーでなにかとお金の自由がない彼女には、日本にいるときは不自由だろうから・・と我が家の車を貸していたのだった。にわかには信じがたい言葉。三日前にも普通に運転していたのに。古いとはいえ整備はきっちりとやっていた。オイル漏れの対策もしていたし、何が原因だったのだろうか・・


JAFを呼び夜中の中央高速を東京にレッカー移動。下部からは著しくオイルが漏れていた。何かの原因でオイルパンか接続部にダメージがあったのかもしれない。とにかくオイルを足して走るようであれば修理工場に持ち込んで修理をしてもらおう・・。だがダメージは結構深刻なようだった。オイルを足してもエンジンはかからない。足したオイルはすべて下部から漏れ出してしまった。


レッカーで修理工場に持ち込んでみてもらうと、エンジンマニホールドが割れていてエンジンがもう駄目なのだという。端的に言えば、エンジンブロー。無理な運転をしなければエンジンブローなど起こらないはずだが、運転していたのは義理の姉の息子。運転慣れしていない若者の彼においては、古い車の扱い方など分かるはずもない。まさか、彼に運転をさせるとは思わなかった・・


エンジンの載せ替えを検討したが、50-60万もかかるという。この年式なら2,3台は買えてしまう。載せ替えてもきっちり復活するかもわからない。20-30万だったら考えたのだが、さすがに廃車にする決断をすることにした。


19年も乗ってきたのだしよく頑張ってくれたといえるのかもしれない。でも、僕の運転だったら、きっと壊すこともなかった。まあ、これも運命。そんなこんなで車がなくなってしまい、カーシェアユーザー。場所が場所だけに便利といえば便利です。しかも、最近の車は何かと快適だし、小回りも効いて便利だったりする。今度車を買うのは、鎌倉に移住するときまでお預け。次に買う車も長くメンテできる車がいいな。

記憶に生きるクラスメート

期待に胸を膨らませて入学した中学1年生の時のクラスメートは、すべてが真新しく新鮮だった周りの風景、匂いとともに当時の皆の面影を鮮明に覚えている。他の学年では、記憶が断片的で不鮮明なのに。

 


だから、その時のクラスメートの訃報に接したときは、少しショックだった。普段から会うわけでもなく、同窓会で会うだけの間柄だけど、記憶の中にいつも留まっている人であったから。

 


考えてもみれば、高校を卒業してからかつての学校の集まりというものには僕はまるで顔を出そうとしなかった。勝てないチームでもありながら、日々時間をともにした野球同好会の仲間とごく一部の友人くらい。

 


鬱屈とした高校時代の自分を全て捨て去るつもりで浪人時代を過ごしたから、その時のスイッチがいつまでも切れなかったのだろう。

 


30代前半の頃だった思う。同窓会があるから是非来てよ…という電話がかかってきた。声の持ち主は、O君だった。無邪気さと年齢を超えた落ち着いた大らかさを持つ彼の声は、中学時代とちっとも変わっていなかった。

 


誰かが行くから行ってみようか…ではなく彼の声に入り続けていた自分の中のスイッチがようやくOffになった。僕は久しぶりに母校の集まりに顔を出すことにした。そこにはO君の姿もあった。

 


コロナで無期延期となった同窓会。次の機会で彼がいないというのが僕にはどうにもしっくりこない。たまたま今回は出られなかっただけなんだよ…そう思ってしまうことだろう。

回避動機と接近動機

ジャージをまといスポーツ刈りで登校する中学生たちの姿を目にした小学生の僕は、前近代的な地元中学に進む自分の姿を想像するのがたまらなく嫌だった。

 

 

 

小学5年が終わった春休み。意を決して親に私学に行かせてもらうことを懇願し、進学塾に通わせてもらうことになった。目指している学校は特にない。たまたまクラス分けテストで高得点をとったことで、特進クラスに振り分けられた。

 

 

 

そこには、開成やら桜蔭やらを目指す生徒がハチマキなどをしていたりするのだが、地元以外ならどこでもいい僕から見ると、理解しがたい異世界のひとたちだった。そもそも、僕は囚人のごとく丸刈りにされる前近代的なところではなく、自由で楽しそうな学校であればどこでも良かったのだから。

 

 

 

特進クラスにはスケジュール的にも内容的にも付いていきがたく、クラスを下げて勉強を続けた。(春休みの一科目2時間×4の8時間特訓コースというのはさすがに閉口した)

 

 

 

中学受験は実力から見た3つ。難しめと順当は自分で選んだ記憶があるものの、もう一つを選んだ記憶がない。果たして2つに合格し自分が選ばなかった学校に行くことにしたのだが、これならハチマキの連中などに混じって塾に行くほどでもなかった…と思った。とはいえ、親が見立てて行くことになった中学は通学は遠かったもののとてもいい学校だった。

 

 

 

子供たちが中学受験をしたのは、もう10年以上も昔のことになる。志望校への合格の喜びも束の間。授業料のあまりの高さに閉口したものだが、自分の行っていた学校も、授業料の高い学校だったことにその時ようやく気がついた。

 

 

 

うっすらとは分かってはいたのだが、なぜ親は特段余裕もないのに、授業料の一番高い学校を薦めたのか。そのことをもっと理解して学校に行っていれば、もう少しマシになっていたのかもしれない。

 

 

 

その6年後、理系選択で急降下した成績で大学受験にすべて失敗した春を僕は迎えた。わざわざお金のかかる私学に行った上に浪人生活。改悛と焦燥感により敷いた背水の陣。それが今の僕を作っていたりもする。果たして回り道はしたものの、中学受験の時の坊主刈りに代わる動機を得たことに解決の糸口はあったわけなのである。

 

 

 

結局学びというものは動機次第。その源は、自分自身の内側から湧き出るものかもしれないし、コンプレックス、親への思い、心を寄せるクラスメートかもしれない。

 


ちなみに僕の高校時代まで学びの動機は『恐怖からの回避動機』。大学生以降は、『興味を持つ対象に対する接近動機』。社会人において学んでいる人が少ない理由は、学生時代の回避動機のパラダイムが社会人になっても塗り変わっていないからじゃあないかと思っている。