Homare's Diary

組織人事コンサルタントの徒然日記です

存在意義とブルーオーシャン

事業戦略を考える際に、企画系の人たちがよく口にする「ブルーオーシャン」という言葉がある。


競合がひしめき合うレッドオーシャンで戦うのではなく、競合がいないブルーオーシャンを見つけそこで事業展開すべきだ。そうすれば利益率も高くシェアも取れる・・さて、どこにブルーオーシャンはあるのか?というものである。


僕は、ブルーオーシャンというのを軽々しく口にする人が嫌いである。アイデンティティや志があればそれを貫いていけば、それが結果としてブルーオーシャンになるだけであり、最初からそこを求めている人においては、アイデンティティも志もまるで感じられないから。


そもそも「ブルーオーシャン戦略」というのは、日本ではなぜかありがたがっている人が多いが、米国ではさほど注目されていないとも聞く。それもそうだ。人が何をどう言おうが、小さいころからアイデンティティを明確に意識し、貫いた結果がブルーオーシャンであり、最初からブルーオーシャンを見つけ出そうという発想は、向こうの国民性からいって合っていないと思われるから。


だいたいブルーオーシャンを探し出そうと血眼になっている企業は、理念なき企業であり、口にする人も出世するための手段として事業を考えている程度の人間なのである。

 

いつまでも見つからない青い鳥を探す前に、自分の存在意義を見つけてくれよ・・と思ってしまうのである。

プロの役者の力

私は貧乏がいやだったから、お金持ちとどうしても結婚をしたかったの。父親のことも嘘をついてました。最後の嘘は、貴方のことを心から愛していなかった事なの。ごめんなさい…

 


ここまで正直にキッパリと相手の男の人に言い切れたら、婚約を破棄された男も未練を断ち切れるだろうね。

 


あ、これ再放送の『やまとなでしこ』の松嶋菜々子のセリフです。当時は、結婚して子供も小さくてまともに見れてませんでした。なんか、服装と髪型に一番時代の変化を感じるな。でも、松嶋菜々子さんは圧倒的に美しいです。

 

 

 

脚本もさることながらこのドラマは、主人公の松嶋菜々子さんと堤真一さんが魅力あふれる俳優であるからこそ面白いのですよね。特に堤真一さんはカッコいいよ。本当に。

 


やっぱり、今のドラマが断然面白くないのはプロの役者さんがキャスティングされておらず、ジャニタレやXX坂などのアマチュアを配役しているのも大きいよな。その証拠にNHKのドラマは面白い。半沢直樹も大物俳優使っているから面白いのよね。

持久機能の維持

在宅ワーク4ヶ月目ともなると絶対的な運動量不足は否めないわけで。週末のランニングも体が重いし、タイムも伸びない。まあ、これからの季節は仕方ないけど…

 


これはいよいよ体力が落ちているんだな…と思ったのは、昨晩のランニングの後で血尿が出たこと。こういうときの血尿自体は一過性のものなので、大騒ぎするものでもないわけです。しかしながら、この現象は休み明けなどに身体に高い負荷を与えると出る現象ですので、どれだけ身体を使っていないかということの現れな訳です。

 


しかし、部活でもそんなことなかったな。(そんながっつり系じゃ無かったし)いや、そこまで追い込むタイプじゃないしなあ。

 


にしてもやっぱり、往復25キロの自転車通勤の運動量は馬鹿にできない…

 


さて、日々の自転車通勤が全くなく今後もこの状態は続くことを考えたら、やっぱり日々のちょいランなどをするのが一番なのでしょうね。これじゃ、週一のロングランは身体を痛める行為になりそうだし。なかなかね、思うようにはならないものですね…

好きを想いに、想いを言葉に

3年ごとに巡ってくるカウンセリング資格の更新。今回5回目で総じて16年目となった。まだ16年…という気持ちと16年もという両方の思い。

 


16年前は、組織・人事のコンサルタントでは無かったし、専門知識もほとんど持ち合わせていなかった。当時の僕のテーマは戦略であり、労働市場分野の新規事業開発として取り組んだテーマが若年ニート・フリーター就労支援事業だった。

 

 

 

その事業ではキャリアカウンセリングがサービスの骨格であったことから、プロジェクト経費として資格を取得させてもらったのだった。

 


GCDFキャリアカウンセリング研修テキストの最後のページには、将来のキャリアビジョンを書くページがある。そこには戦略とカウンセリングという専門性を活かした仕事として、エグゼクティブサーチというキャリアを書いた。単なる組織人事の専門家なら数多いる。経営や戦略という縦糸とキャリアという横糸の織りなすところに自分の意味があると思ったから。

 


組織・人事コンサルティングドメインにいくことも、その中でキャリアを軸にしていくことも当時の自分には全く想像がつかなかった。可能性も見えなかった。

 


資格取得のクラスメートは、人材サービス、人事、教育・研修など人事系の職域で働く人が多かった中で、僕は全く異質な存在だった。

 

 

 

果たしてその後において、組織・人事の領域に専門分野を大きくコンバートし、専門ファームでキャリアを築くことになった。そして厳しい局面に何度か遭遇するも、16年前に白紙の紙に描いたビジョンはほぼ希望通り、それ以上の形となって自分の前に現れてきた。

 

 

 

僕は一年の計もしないし、キャリアプランなどというものもいちいち行わない。大事にしているのは、自分の『好き』や『興味』をドライバーに行動していくこと。そこには、自分の能力やエネルギーの源泉があるし、それを活かしていくことが自分や他人をハッピーにできる鍵だと信じているから。

 


計画は作らなくても、感じたことに素直に。思いを言葉におこし、テーマを描いてみる。その事は案外有効であると思っている。

忘れ物にご用心

久しぶりのビジネストリップというのは、どこかで抜けが生じるもので。旅にアクシデントは付きものとは言うものの、よりによっていつも持ち歩いている虎の子の一眼レフをどこかに置いて来てしまったらしい。


気が付いたのは、夕景を取ろうとした矢先のこと。肝心のカメラはどこにあるのかと思ったが、手にも持っていない、カバンにも入っていない。どこかに置いてきてしまったらしい。後悔先に立たず・・・記憶を一つ一つたどり電話をかけてみる。一番濃厚なのが最後部の座席に乗った路線バスの中。


事業所の番号を調べ電話をしてみる。忘れ物をした際には、乗った停留所と乗車時間が分かると早いとのことで、Googleマップでそれと思しきバスの番号をオペレーターに告げる。(Googleマップは便利だよね)


『今日のところは届いていないようです。明日の9時以降に再度電話してきてください』

帰りの飛行機の時刻も迫っており、もはやジタバタしても仕方がないと観念する。果たして翌日の土曜日の朝にかけるも、この段階でも届いていない。警察の遺失物検索サイトで探るも届いていない。やっぱダメか・・


気を取り直して、午後の3時に再度電話。


僕のカメラは、今日付で営業所に届いたらしい。営業所の方と電話でやり取り。特徴はしっかり照合できて僕の持ち物だとハッキリ分かったので、着払いで送ってくれるとのこと。到着は明日。一件落着・・やれやれだ。それにしても、国内だからこれだけスピーディーに解決できたわけで。これが海外になったりすると事はそうは簡単にいかなかったりする。そもそも忘れ物が届けられることもまずはない。


昨年の欧州旅行をした際に息子がフランクフルト着のルフトハンザ機内に、iPadの忘れ物をした。あわただしく荷物をまとめて離籍したため、座席背部ポケットに入れたままにしてしまったのだ。すぐに気づいてカウンターで話すも、機内にも戻れないし、ピックアップはできないという。


その後、数か月のやり取りをしてようやく日本に遺失物が戻ってきた。特にパソコンやiPadは、リチウム電池を搭載しているため、配送にはことさら手間がかかるのが原因だった。それを思えば・・


それにしても、このコロナ禍の影響でバスがすいているのはいいが、荷物を座席にボンと置いて乗っちゃいけないってことなんだよね。こういう時に、目指すバス停でパッと降りたりすると大抵モノを忘れてしまうから。でも、色々な人に手間暇と迷惑をかけてしまった・・反省・・

等級制度はキャリアパスではない

組織・人事のコンサルティングにおいて、人事制度設計を行うことがある。その中で未だに違和感があるのが、等級制度に合わせた昇格要件や管理・専門系の分化をさせる定義をもって『キャリアパス設計』と称する点だ。

 


キャリアを専門とする人間からして、こんなものはキャリアパスでも何でもない。ただの昇格要件と昇格ルートに過ぎない。なぜなら、等級制度とは偉さの基準にすぎないから。

 


実際に等級の途中で止まってしまう人が多い中で、一部のトップだけが歩める道(パス)に『キャリア』なんて名付けるべきではない。なぜならその発想はおおよそ外的なものであり、外的キャリアの視点しか持ち得ない仕組みに今どきにおいても『キャリア』という名称を何の疑いもなしに使うのは、古くさいとしか言い様がない。

 


本来のキャリアパスとは、定年までの枝分かれの現実を個人に見せて考えさせるものだ。管理・専門という枝分かれのみならず、万年一般職や役定、再雇用といったダウンサイドまで見せて考えさせるもの。

 


だから、ピラミッドの等級制度のパラダイムキャリアパスだと称して疑わない人事コンサルは、人の感情やキャリアというものを分かってないな…と思ってしまうのである。

たかがコンサル、されどコンサル

昔、コンサルタントという仕事は虚業ではないかと悩んだことがありました。ハッキリとしたサービスやモノを作り出して便益を届けている事業会社と比べて一体何が価値なのだろうか…と。

 


構想という見えない建造物であったり、問題の発見と解決への示唆であったり、合意形成に向けたコミュニケーションコストを第三者の介在で下げるということは立派な付加価値である、ということが確信できるようになり、虚業という意識はなくなっていきました。

 


それでもコンサルタントという仕事の難しさやその覚悟をことさら強調して他人に語る人間には今でも抵抗感があるのです。なぜなら、新しい職能に来たからには、相応の覚悟が必要だし、それはなにもコンサルタントに限らないから。だから、何かにつけてそのことに言及する人においては、『貴方は他の仕事を経験したことがあるのか?』とカチンときてしまうのです。

 


過去を振り返ってみると、大変だったのは事業会社(リ社)で新規事業の立ち上げを業務委託という立場でやったこと。

 


社内を一枚岩にして動かし、顧客にも有用性を認識してもらわないと事業は立ち上がらない。部分的な示唆で済むコンサルタントなんて楽。事業が立ち上がって生き延びていくために、全知全能で臨むことが必要だったから。

 


だから、コンサル業界しか知らない人に、滔々とコンサルタントとは?などと語られると、自分にプライドを持つのはいいけど、おおよそ世間知らずの人だな…と思ってしまうのです。学生相手のイニシエーションならいいけどね。