Homare's Diary

組織人事コンサルタントの徒然日記です

ノブレスオブリージュ

池井戸潤の小説には、非常に分かりやすいワルが出てくる。彼らは、弱い立場にあるものを、持ちうる限りの合法的な手段で攻撃してくる。融資の引きはがし、取引の停止、特許の侵害・・など。弱者にいる主人公は、いつも窮地に追いやられる。

だけど、実際には誰からどう見てもハッキリと分かる悪なんていない。

誰だだって弱さや狡さというのは持っている。それが『モンスター』に育たないように普通はコントロールする。危険なのは、モンスターを放し飼いにする力を手に入れた時である。

地位と名誉を手に入れたい、好きな異性をモノにしたい、冒した不正を隠蔽したい…

力を手に入れた時、その力を何のために使っていくのか。その人の持つ姿勢が問われる。変化の激しい時代。全知全能、万能の神になることができないのなら、自己の限界、無力さを理解した上でメンバーの力を発揮させていくためのお膳立てをするのがベスト。『サーバントリーダーシップ』というやつだ。古くはノブレスオブリージュ。

その上で一番大事なのは、子供のような心で人の行っていることを訊き、相手の心の声に耳を傾けること。そう、松下幸之助さんのように。

アンビバレンスのエピローグ

一度決めたら、思い込んだらやり抜いてしまう一途な性格。

芸能界入りを親や先生に反対されたときも、学年一位の成績を取る、名古屋圏の統一模試で5位以内、県下トップクラスの高校に合格する…という途轍もない目標を掲げ、その約束を果たしてしまう。

芸能界入りをし歌手デビューをしてからは、同じ事務所の先輩であるポスト松田聖子の筆頭候補と呼ばれるように。未来に拡がるキャリアは前途洋々。

そんな中、彼女が心を奪われたのがドラマで共演した俳優のMだった。寡黙で直向き、時折見せる快活な笑顔。成熟した実直で信頼できる大人の男。早熟で聡明な彼女から見て、理想ともいえる男性だった。

だが、運命は非情だ。彼には子供と婚約者がいる。それでも募る想いは留められない。彼女は自分の想いを綴った手紙を書いた。

その返事は彼女の心を打ち砕くものだった。彼は自分のことを子供としてしか見ていない。『お嬢さん』手紙にはそう表現されていた。

息もつけない多忙を極めるスケジュール、彼女は心のバランスと自信を完全に喪失してしまった。早熟な自分と未熟に見られる自分。生きている世界の全てが儚く、無意味なものに思えてしまう。彼女は自分という存在に耐えきれなくなった。

朦朧とする意識の中で手首を切り、ガス栓を開放した。だが、自殺は発見者によって未遂に留まった。

翌日、事務所に呼び出された。優しく労りの言葉を受けつつ、言葉は頭に入ってこない。ただ、多くの人を混乱に巻き込んでしまった自己の罪悪感が彼女の心を締め付けていく。彼女は全てを終わらせようと屋上へ駈け上がった…


彼女の自殺はセンセーショナルに報道された。飛び降りた現場に飛び散った脳漿の写真。俳優との不倫関係の果ての失恋だと伝えられた心ない報道。本当のところは不倫関係も何もなく、一途な彼女らしい思い込みとケジメだったのだろう…

30年以上ぶりにキチンと聴いた竹内まりやプロデュース曲を集めた岡田有希子コンピレーションアルバム。非凡な才を感じる透明感のある歌声。もちろん楽曲は素晴らしい。

一途で強い想いは、アンビバレントな思春期の脆さの中で彼女の存在自体を滅ぼしてしまった。とても残念で哀しいエピローグだ。

ホステスのいる店

あまり酒場に行くことはないから、昭和スクリーンの向こうの想像の世界だった「スナック」。カウンターがあって酒とつまみを出してくれてカラオケが出来るという店構え。そこに、ママがいて酌をしたり唄を歌う女の子が幾人かいる。

昔はそれとわかる看板がかなり目についたけど、こういう構成のお店はかなり減っている。とはいえ、都心からかなり離れた工場主体の街では、場末という言い方が相応しいスナックが今でもちゃんと生き残っていたりする。

普段に酒を飲む趣味の無い人間としては、ショットバーなどに行くこともなく。スナックなどと言えば尚更ない。そもそも、女の子が酌をしてくれる店というのは苦手なのである。だいたいだ。好きでも興味もない、サービスとして接してくれる女性にちやほやされることのどこが嬉しいんだろうか…

学生の時、内定をもらった会社の懇親会の二次会では、バニーガールの女性がいる店に行くのが常だった。胸の間にライターが挟んであり、たばこが吸いたいとそこからライターを取り出して火をつけてくれる。

同僚の一人は偉い感動し、俺もたばこを吸おうかな…と真面目に考えていた。田舎者の馬鹿丸出し…やれやれだ。


昔、キャバクラが好きだというクライアントがいた。その人に、無理矢理に渋谷のお店に連れて行かれた事がある。素性も知らず、好きでもなんでもない娘とその場限りの薄っぺらい会話をするという事を全然楽しめなかった。会話力でいけば、僕の方が断然ある。この頭の弱い彼女をなぜ僕は金を払ってまで無理な会話で楽しませる必要があるのか…さっぱり意味が見いだせなかった。

倉科遼の漫画に出てくるような品のあるキャバクラ嬢などいないのです。いたとしても、お金と時間を費やすだけ無駄無駄無駄。無駄なことは嫌いなんだよね。

スナックはそこまでべったり女の子が張り付いてくることはないので、気は楽ですが。

それでもやっぱり居心地の悪さを感じちゃう。そして、家に帰ると無性に寂しい気分になる。それは、酒の場に行くのなら、気心の知れた人との裸の会話を求めているからかもしれない。

そんな中で唯一記憶に残っているのは、ある工場常駐の案件があったときに行ったスナックの女の子。極めて普通の人だった。

歌を歌ってよ…彼女にマイクを渡されて1曲歌った。

『あなただったら、尾崎豊がいい。そうね…』

彼女が入れた曲は、"僕が僕であるために"という曲だった。もちろん曲はよく知っている。でも人前で歌ったことは無かった。

歌い終えると彼女はいった。

『やっぱり、合っているわ…』
確かに曲は歌いやすかった。僕は不思議な感覚に包まれた。

帰るとき、『また、お店に来てね…』という言葉が珍しく小骨のように心に引っかかった。結局、僕はそのお店には行くことはなかった。でも、尾崎豊が好きな彼女とは話を続けたかった気がする。

バッテリー交換の妙

iPhoneを買い替える理由の一つとして、バッテリーが全然保たなくなった…というのは結構大きくあると思う。

ガラケーであれば、電池パック交換は比較的安価かつ簡単に行うことができた。Apple製品はMacintosh時代から基本的に中を空けさせてカスタマイズをさせないようにしている。

iPhoneについてもこの思想は全く同じ。最近ようやくバッテリー交換のアフターサービスメニューが追加されたくらい。価格も当初は1万くらいしていたが、これも価格が改定されiPhone7であれば5,400円にまでなった。これは評価すべきことである。

でもね。僕は基本的にハッカーなのです。自分でハンドリングしたいのです。いちいち預ける時間も惜しいし、そのための工賃も余分。しかも、標準よりも大容量のバッテリーを装置できるんだったら、自己責任でやる価値ありです。

今回はフロントパネル交換をしなくてはいけなかったので、バッテリーも交換したのですが。パネルの精度向上さることながら、標準の1960mAhから2250mAhに変えたことで、バッテリーがかなり保つようになりました。これはかなり重宝します。

これまでは、1960mAhかつ83%のバッテリー能力でしたから、モバイルバッテリーが手放せませんでしたけど。なので、自分でバッテリー交換し続けられる分には、機種変更は不要かな…Appleには悪いけどね。

ベストがワースト

ベストを尽くしても、その行為がいつも賞賛されるわけではありません。むしろ、その真逆の評価を受けることだってあります。恐ろしいことですが、それが世の中の現実だったりします。

1989年。F1ワールドチャンピオン争いがかかっていた鈴鹿グランプリ。ポイントリーダーのアラン・プロストを追うアイルトン・セナは優勝が逆転への絶対条件。予選でアイルトン・セナは二位のプロストに大差をつけ、ポールポジションを獲得。逆転チャンピオンに向け一縷の望みを繋ぎました。

本戦でスタートが遅れたセナは、二位に後退。一時期は放されますが、怒濤の猛追。アクシデントは残り10周で発生します。シケインでインを突いたセナをプロストが強引にブロック。両車ともに破損リタイア。これでプロストはチャンピオン獲得決定…

諦めきれなかったセナは、マーシャルの手を借りて押しがけスタート。フロントウィングを破損しながらも鬼神の走りで一位チェッカー。逆転優勝か…と思われました。ですが、非情な裁定が下りセナは失格。さらには、『危険なドライバー』というレッテルが貼られることになります。

このため、翌年のF1を走るためのスーパーライセンスも発給されず、失意と傷心のオフを送ることになるのです。

引退か転向か。ファンを魅了する渾身の走りが、危険なドライバーで走る資格なし。どうしてこんなに世の中は非常なのでしょう。

最終的にセナにスーパーライセンスは発給され、セナは1990年のワールドチャンピオンを獲得します。胸のすく、素敵なストーリー。ですが、世の中にはベストを尽くしても最悪の評価を受けるということは、あるものなのだ…と思うのです。

嫌われる勇気

人は『他人からどう見られるか?』を気にする生き物。確かに人は一人では生きられない以上、傍若無人に生きては意味がありません。

でも、人からの承認を得ることばかりを考え生きていくと、自分を見失い他人の人生を歩むことになります。それは、人からの承認を得るということに最大の価値を置き、そこに心が束縛されている状態ともいえます。

そもそも『他人の期待』などというものは、どこまで行っても満たすことなどは不可能なのです。

仮に一人の期待を満たせていたとしても、万人を満たすことはできない。そして、相手のために善かれと思って行ったことでも、それがそのままの通り相手に受け取られるとは限らない。誤解をされることだってある。過度な理想を抱かれ、そのギャップに一方的に失望されることだってあります。そして、いくら好意的に思われていても、人の心はいかにでも変わってしまうものです。自分が変わっていなくても。


そう。人の期待や見方というのは、一時の感情であり、人によっても異なるのです。要は普遍的なものではない。他人からの期待とのギャップは理解し、真摯に改善に取り組んだとしても。それは、天候に心が左右されて生きるような人生だから。

『私心なかりしか、動機善なりや』

コントロールできるのは自分の行動だけであり、その上での基準だけ。

人から期待を受け、見られる立場になると様々な見方、思惑にさらされることになります。人それぞれ理想が異なるわけですし、そこに合わせようとも合わせたいとも思いません。自分ができるベストを行う。自分のことを一番よく知る自分こそが、それが出来なくて誰がそれをしてくれるのでしょう。

唯一、期待に応えるべく最大の努力をするのであれば、それは家族という存在だけでしょうね。

セルフリペア2

玄関ドアの上部についているドアクローザーという部品。こいつは、ドアが閉まるスピードをコントロールしています。スピードが意に沿っていなければ、ネジで調整ができるようになっていますが、経年劣化すると油圧式シリンダーから油が漏れ出し、スピード調整が全く効かなくなります。

我が家の玄関においても油漏れが発生し、ドアが猛烈な勢いでしか閉まらないようになってしまいました。

ドアはYKK AP製。修理屋を呼ぶと2万以上は取られるようです。そこで、ネットで対応策を調べ自分で修理を行うことにしました。

とはいえ、ドア部材の型式は分かりつつ、ドアクローザーの部品番号が全くわかりません。コンポーネントパーツなので、特定化できないらしいのです。しかも、古いパーツですしね。

現行部品の採寸を行い時間をかけて同形式の部品を調査。ようやく代替部品をAmazonで発見。色も全く一緒。しかも想定より低価格。

全くの同形式だったので、取り付けはスムースでした。iPhoneのような普及品はパーツを探すのに手間はかかりませんが、住宅建材は探すのが大変ですね。