Homare's Diary

組織人事コンサルタントの徒然日記です

ブラックボックスが嫌い

物事をブラックボックスのままにしていくのはどちらかというと嫌なたち。箱の中を開けてメカニズムを自分なりに理解し、不具合が起きていれば自分の手で直してしまおうと考えます。


車、自転車、家電、ソフトウェア、税務処理、家の水回りといったプライベートのこともさることながら、仕事においても基本的にはそうです。


仕事でもそうなんですが、すぐに「これはできません」とか「これは大変です」といって断ったり、不平たらたら効率悪くやる、簡単にお金で解決しようとする人っているわけです。だいたいこういう人に任せておいても、いい仕事なんて間違いなくできやしません。ならば自分で中身を見て構造を理解し、もっといいやり方でやってしまおうと考えるわけです。


昨日も車で走っていると、リアの車幅灯が切れたのでバルブ交換をせよ・・というメッセージが出たわけです。時間もないので手っ取り早くセルフではないスタッフのいるガソリンスタンドに飛び込み、診てもらったわけですが。(最近はセルフばっかりですね)


「このバルブは外国車ですから、ウチにはおいてありませんね・・」とあたかも知ったかぶりでスタッフが言うわけです。


確かにね。ボルボは外国車ですけど、ランプの留め金は特殊でもバルブランプについては特殊でも何でもないことを僕は知っているわけです。で、この人には技術がないのだと分かったのでお店を出ることにしました。で、後日オートバックスでバルブを買って自分で直して一件落着。価格400円なり。


ガソリンスタンドのスタッフなのに、ライトの交換すらも出来ないのかな・・しかし、メカニズムが分からないと、いい加減な説明に納得し、車をディーラーに持っていき大枚をはたくことになるわけです。まあ、それはそれで良いのかもしれませんが。


とはいえ、仕事においてはあまりに案件数が多く、「これは出来ません」とか「これは大変です」という状況になかなか介入できない訳です。任せることは大事ですが、問題解決力の低い人は権限委譲したところで、泥濘からはまず脱出できないというのも経験で分かっている。これは個人的なモットーに反することでストレスなんですよね・・・

愛という名の下に

大人になるということは、愛すべきもの、守るべきものが増えていくという側面があると思うのです。

 


そして、そうした存在が増えてくれば来るほど、自分の力の全てはひとりひとりに投入できないですし、その存在が柔らかく壊れやすいものであり、仮にすべての力を投入したとしても守り切れない以上は、愛するもの、大切なものが苦しむ姿を見ることから逃げられないわけです。

 


これは、とても辛いことです。それが自分への期待とのギャップから生じているならなおさらです。

 


愛すべきものがいないときの寂しさもさることながら、愛すべきものが苦しんだり、哀しんだりする姿を見るのは耐え難いものがあります。

 


年老いた親、連れ添ってきた妻、心許せる友人、冒険をともにする同僚、迷宮の入口に立つ子供たち…

 

 

 

ー自分ひとりのことだけを考えていたから、この思いを抱えていく自信は今はないけど。いつもと同じ帰り道、君と同じ名前の痛みと散歩するような毎日も悪くはないだろう。

 


形のないこの痛みと僕は暮らしてみる。形のないこの痛みを少しは可愛がれるように。君の名前を内緒でつけた僕のName of Love-

槇原敬之Name of Love)

 


形のない痛みと暮らしていく、その痛みこそが自分が目指してきた大人への代償…

 


でも痛みは抱きつつも愛する人と笑いあえるように。なぜなら、きっと彼らだって痛みよりも笑い合いたいから。愛という名の下に。

遊び心が学ぶ心

当該職階や上位職階の要件を明確にし、そのギャップから学習行動を促すアプローチは、外的コントロール心理学に基づくものです。外的刺激から、学習行動という反応を引き出すものといってもいい。

 


一方で、人がそれぞれ持っている内的動機に基づくアプローチが存在します。選択理論心理学では、5つの基本的欲求(生存、愛・所属、力、自由、楽しみ)が人それぞれに強弱は変われど遺伝的に存在し、その欲求によって形成される『上質世界』に基づいて人は行動するとしています。

 


そこでの学習行動は、楽しみの欲求と強い関係があるとされている。ですから、学び続ける事が必要な職業においては『楽しみの欲求』の発露として学べる人を採用した方がいい。その上で相互啓発が起こる場さえ用意してあげればいい。

 


問題は、楽しみの欲求のパラダイムで学ぼうとしている人間の中に、外的コントロール(生存欲求や力の欲求がドライバーの人)を効かさないと学習行動を取れない人材が入ってしまうこと。いわゆる、学校秀才タイプ。これは、当人にとっても不幸だし、こちらとしても扱いに困ってしまう。

 


ですから学びの動機や行動の有無は、僕は絶対採用で判別しないと駄目だと思っています。ここを学歴などで判断しようとする人がいますが、愚の骨頂ですね。

フルバックのフォワード

ラグビーではボールを持った選手が相手に囲まれ、前に進めることが効果的でない場合に密集が形成されます。状態によってモール、ラックと呼ばれるものです。

 


密集を形成する役割は、スクラムを組むフォワードになるわけですが、フォワードだった僕は、どうもこのモールやラックというものに参加をする気が起きませんでした。

 


それは、全体を引いた視点で見るのが好きなのに、無条件に頭から密集に突っ込むということに、まるで気をそそられなかったことがあります。

 


ですから、いつも少し遅れ気味に密集に向かいつつ、ブラインドサイドは陣形のどこか、どの辺にボールが出そうか…相手にボールが出た鼻先をいかに潰すのか…そればかりを考えてゲーム中は動いてました。

 


ま、校技がラグビーであり熱くなる戦いではあるものの、しょせんは授業のラグビーフォワードの一人がモールに素早く密集しなくても体制に影響はないのです。(ルールをあまり重視しない性格が表れている)

 


中高のラグビーは、バックスもボールに引きずられた動きをするもの。ブラインドに振られた攻撃を何度か止めるにつけ、バックスでないのに『フルバック』と呼ばれたりしたものでした。

 


今の仕事も、俯瞰した視点からブラインドサイドを発見し、そこから問題の解決を行うことが多い。当たり前のルールも目的合理の観点で時に無視です。

 


フォワードではない、スタンドオフでもない。フルバックというポジションが自分には合っている。一方で、スクラムにがっしりバインドされるポジションはまるで合ってない。せめて、すぐにバインドから抜け出せるフランカーが心地いい。

 


きっとスポーツにおけるポジションの好みというのは、仕事と関係があるのでしょうね。

道を歩む人の原則

「そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」‭‭ルカによる福音書‬ ‭11:9‬

 


懸命に探していれば、捜し物は見つかる。叩き続けていれば、扉は開かれる。プロフェッショナルワークの基本は、このルカによる福音書の一文そのものではないか。

 


探していないから情報が与えられない、たたき続けていないから機会が与えられない。教育機会がない、自分のことを分かってくれない、希望通りのテーマにアサインされない…

 


事業会社で受け身の仕事をしてきた人は、ここが分かっていない。そもそも、受け身というスタンスすら。だいたい、人に決めてもらった異動配置に従うパラダイム自体が、全くの受け身なのだ。

 


プロフェッショナルワークは、キャリアデザインだって自己責任だし、教えを請えば皆親切に教えてくれるが、そうでなければお節介に教えたりしないのが通例。そして、情報や機会は自ら他人に与える人、発信する人に集まるのだ。インフルエンサーにならなければ、干上がっていくのがオチなのだ。

 

 

 

僕らの組織はその辺のプリンシプルを感じる機会が少ない。家族的だったり、お節介だったり。教育について青臭く議論していたり。いいんだけど、受け身の人が勘違いをしたままだったりする。

 


たたかない人に機会はない。上に行くこともない。それに甘んじていることも否定はしないけど、自ら機会を作る主体性や動機もなく、不満を垂れ流す人なんて、そもそもプロフェッショナルファームに来ちゃだめなんだよね。

輝きの意味

盛夏に生まれたこともあるのだと思うけど、強い光線に照らし出された夏の景色がすき。

 


鬱蒼とした木立に囲まれた小径の先に見える拓けた海、高層ビルの谷間に落ちる夕陽、夕立の後の濡れた葉の合間から見える青空…

 


煌めく景色は、コントラストが強い景色といってもいいかもしれない。強い光と暗い影。差があればあるほどいい。そこで大事なのは、強い光だけではなくくっきりとした黒。

 


日々の生活も同じで、光の世界だけではなく、マイナスだったり無の状態である黒の世界を識別してこそ、何気ない日常も輝きだしてくる。自己の体、家族、仕事、仲間… 諸行無常であり、どれもがいつなくなってもおかしくはない。実際にそういう局面にも遭遇してきた。

 


だから何気のない日常の明るさもより眩しく感じることができる。毎日が退屈で面白くない…なんていっている人は、漆黒の世界を知らないんだろう。会社や仕事があるのが当たり前だと思っているサラリーマンが、仕事のつまらなさを嘆くように…

 


光は永遠であり、若さであり、力の象徴。でも、永遠なんてものはないのだから。

寄り道が好き

ある初めての人に会った時のこと。「野心て持っていますか?」と聞かれたので。

 


「どう見ても持っているように見えないでしょ。野心を持っている人は、目的合理に効率を重視して行動するけど、僕はその正反対。寄り道が大好きなんですよね」

 


「寄り道・・ですか??」

 


「ええ、旅行とかに行くので高速道路に乗っても、ちょっと渋滞していると、これはしめたと思ってすぐに降りて温泉行っちゃったり。会社・仕事選びもそう。せっかくプロモーションされても延長線のキャリアには興味が持てないと辞めちゃうし。同じ道をいつも通るのが嫌で自転車をいつも使っていたりと・・」

 


そんなことを話したら、それはすごく豊かなことですねぇと言われた。こういうの「豊か」って受け止めてくれるんだ・・・お金や物をいっぱい持っている訳じゃないのにね。

 


自分の体は鏡で分かるけど。内面の本質や大事にしていることをぱっと見抜く人に会える時って嬉しいな、って思う。

 

僕の尊敬する河合隼雄先生も『寄り道』『道草』好きだって言っていて。

 

「ゆっくりと寄り道をすればいい。 道草の途中には、きっと小さな幸せが落ちています」という名言を残しています。でも、本当にそうだと思います。