Homare's Diary

組織人事コンサルタントの徒然日記です

意識と感覚

先日、養老孟司さんの講演を聴く機会がありました。話の内容は、最新著書の「遺書」の内容からだと思われるのですが、非常に興味深く、記憶に残ったものを書き留めておきます。


「意識」が何によって成立しているかは、現代の科学をもっても未だに証明されていない。一方で、人が人たらしめているものは紛れもなく「意識」である。その意識とは、五感で受ける感覚とは異なり、「同じもの」を見つけ意味に変換し、「秩序」を与えているものである。


動物が、言語を話せない一つの理由を考えて見るならば、それはすべてを感覚のみで処理しているからである。感覚の世界においては、一つの花をみても、香り、色にして同一のものは存在していない。動物は見たものをあるがままに、膨大なカメラアイとしての情報として扱う。


人は、どこにいた、何人とそこにいた、晴れていたなどと意味をもたせる。それは、カメラアイから比べると圧倒的に少ない情報として扱う。そうしなければ、言葉に置き換え人に伝えることは出来ないからである。


見たものをあるがままに記憶できるサヴァン症候群山下清などがそれに該当するが、芸術に特異な能力を発揮する彼らに言葉を教えていくと、いつしかその能力は失われてしまう。人も、生まれたときにおいては絶対音感だが、それは徐々に失われていく。絶対音感は音楽の世界においては重要な能力だが、日常生活において絶対音感を持っていることは、人の日常においては、ときに不必要な情報を取り込んでしまうことになる。


言葉という記号に置き換え意味をもたせている段階で、あるがままの感覚は失われている。それは、ある意味で恐ろしいことである。人が意識の世界だけに生きていると、意味を持たないものについては注意を払わなくなる。大事なことだと捉えなくなってしまう。


例えば、人が人を殺してはいけないというのは、本来は感覚の世界で取り扱うものであり、ダメなものはダメという不文律以上のものではないのである。なぜダメかという意味付けをした上で「理解」をさせるものではないのである。倫理とは本来そういうものなのだ。

人は自然から遠ざける形で文明を発展させ、町を形成する。アスファルトで固められた地面は、硬さも感じる温度や湿度も変わりがないが、自然の地面というのは平らでもないし、硬さも感じる温度も湿度も異なる。都市に住み続けるということは、この「感覚」というものを麻痺させていくことに他ならない。


人の意識をさらに発展させたのが、コンピューターでありデジタルデータ。そこには、人を記号でしか認識して処理しない世界がある。本人を目の前にしても、本人証明がなければ何も手続きを取れない銀行というのは、人を記号としてしか扱っていない。そうした組織なのだから、勤めている人においてもコンピューターでどんどん置き換えて、リストラしているのは、ある意味自明であり皮肉なことだ。


あるがモノをあるがままに見る感覚ということを忘れ、違いを同じにする「意識」に凝り固まりすぎると、人は大切なものを見失い退化してしまうのではないか。


さすがの養老さんです。意識は、画一的に物事を扱う。感覚は、それぞれ別のものとして物事を捉える。「意識」の世界に凝り固まってしまうと、個性なんて簡単に埋没し、生き物としては退化してしまいます。それは、生命力を失ってしまうということ。まあ、僕はどちらかというと意識より感覚で生きているところが強く。その点では変わっているのかもしれませんね。