Homare's Diary

組織人事コンサルタントの徒然日記です

バッテリー交換の妙

iPhoneを買い替える理由の一つとして、バッテリーが全然保たなくなった…というのは結構大きくあると思う。

ガラケーであれば、電池パック交換は比較的安価かつ簡単に行うことができた。Apple製品はMacintosh時代から基本的に中を空けさせてカスタマイズをさせないようにしている。

iPhoneについてもこの思想は全く同じ。最近ようやくバッテリー交換のアフターサービスメニューが追加されたくらい。価格も当初は1万くらいしていたが、これも価格が改定されiPhone7であれば5,400円にまでなった。これは評価すべきことである。

でもね。僕は基本的にハッカーなのです。自分でハンドリングしたいのです。いちいち預ける時間も惜しいし、そのための工賃も余分。しかも、標準よりも大容量のバッテリーを装置できるんだったら、自己責任でやる価値ありです。

今回はフロントパネル交換をしなくてはいけなかったので、バッテリーも交換したのですが。パネルの精度向上さることながら、標準の1960mAhから2250mAhに変えたことで、バッテリーがかなり保つようになりました。これはかなり重宝します。

これまでは、1960mAhかつ83%のバッテリー能力でしたから、モバイルバッテリーが手放せませんでしたけど。なので、自分でバッテリー交換し続けられる分には、機種変更は不要かな…Appleには悪いけどね。

ベストがワースト

ベストを尽くしても、その行為がいつも賞賛されるわけではありません。むしろ、その真逆の評価を受けることだってあります。恐ろしいことですが、それが世の中の現実だったりします。

1989年。F1ワールドチャンピオン争いがかかっていた鈴鹿グランプリ。ポイントリーダーのアラン・プロストを追うアイルトン・セナは優勝が逆転への絶対条件。予選でアイルトン・セナは二位のプロストに大差をつけ、ポールポジションを獲得。逆転チャンピオンに向け一縷の望みを繋ぎました。

本戦でスタートが遅れたセナは、二位に後退。一時期は放されますが、怒濤の猛追。アクシデントは残り10周で発生します。シケインでインを突いたセナをプロストが強引にブロック。両車ともに破損リタイア。これでプロストはチャンピオン獲得決定…

諦めきれなかったセナは、マーシャルの手を借りて押しがけスタート。フロントウィングを破損しながらも鬼神の走りで一位チェッカー。逆転優勝か…と思われました。ですが、非情な裁定が下りセナは失格。さらには、『危険なドライバー』というレッテルが貼られることになります。

このため、翌年のF1を走るためのスーパーライセンスも発給されず、失意と傷心のオフを送ることになるのです。

引退か転向か。ファンを魅了する渾身の走りが、危険なドライバーで走る資格なし。どうしてこんなに世の中は非常なのでしょう。

最終的にセナにスーパーライセンスは発給され、セナは1990年のワールドチャンピオンを獲得します。胸のすく、素敵なストーリー。ですが、世の中にはベストを尽くしても最悪の評価を受けるということは、あるものなのだ…と思うのです。

嫌われる勇気

人は『他人からどう見られるか?』を気にする生き物。確かに人は一人では生きられない以上、傍若無人に生きては意味がありません。

でも、人からの承認を得ることばかりを考え生きていくと、自分を見失い他人の人生を歩むことになります。それは、人からの承認を得るということに最大の価値を置き、そこに心が束縛されている状態ともいえます。

そもそも『他人の期待』などというものは、どこまで行っても満たすことなどは不可能なのです。

仮に一人の期待を満たせていたとしても、万人を満たすことはできない。そして、相手のために善かれと思って行ったことでも、それがそのままの通り相手に受け取られるとは限らない。誤解をされることだってある。過度な理想を抱かれ、そのギャップに一方的に失望されることだってあります。そして、いくら好意的に思われていても、人の心はいかにでも変わってしまうものです。自分が変わっていなくても。


そう。人の期待や見方というのは、一時の感情であり、人によっても異なるのです。要は普遍的なものではない。他人からの期待とのギャップは理解し、真摯に改善に取り組んだとしても。それは、天候に心が左右されて生きるような人生だから。

『私心なかりしか、動機善なりや』

コントロールできるのは自分の行動だけであり、その上での基準だけ。

人から期待を受け、見られる立場になると様々な見方、思惑にさらされることになります。人それぞれ理想が異なるわけですし、そこに合わせようとも合わせたいとも思いません。自分ができるベストを行う。自分のことを一番よく知る自分こそが、それが出来なくて誰がそれをしてくれるのでしょう。

唯一、期待に応えるべく最大の努力をするのであれば、それは家族という存在だけでしょうね。

セルフリペア2

玄関ドアの上部についているドアクローザーという部品。こいつは、ドアが閉まるスピードをコントロールしています。スピードが意に沿っていなければ、ネジで調整ができるようになっていますが、経年劣化すると油圧式シリンダーから油が漏れ出し、スピード調整が全く効かなくなります。

我が家の玄関においても油漏れが発生し、ドアが猛烈な勢いでしか閉まらないようになってしまいました。

ドアはYKK AP製。修理屋を呼ぶと2万以上は取られるようです。そこで、ネットで対応策を調べ自分で修理を行うことにしました。

とはいえ、ドア部材の型式は分かりつつ、ドアクローザーの部品番号が全くわかりません。コンポーネントパーツなので、特定化できないらしいのです。しかも、古いパーツですしね。

現行部品の採寸を行い時間をかけて同形式の部品を調査。ようやく代替部品をAmazonで発見。色も全く一緒。しかも想定より低価格。

全くの同形式だったので、取り付けはスムースでした。iPhoneのような普及品はパーツを探すのに手間はかかりませんが、住宅建材は探すのが大変ですね。

変わらない価値

久方ぶりに会った人から言われる「変わってないね」「変わったな」という表現。語尾が下がらなければ両方とも褒め言葉。では、どちらが最上かといえば語尾の上がった「変わってないね」だと思っている。

「変わってないね」という表現の裏側には、その人らしい良さ・・風貌、考え方、佇まい・・がしっかり残っているという評価が隠れている。街並みもそうだけど、良いものを変えずに残すのは、良さが認識できていなければいけない。そして、変容し崩れ去っていこうとする力に抗わなくちゃいけない。

昔は精悍なスポーツマンで優秀なアスリートだった級友が、久しぶりに会ってみると顔の輪郭も崩れ、膨らんだお腹を抱えていたりする。とっても残念な気持ちになる。あんな良いものを持っていたのになんで・・・と。

巨人の長嶋さんは、引退した後もファンをがっかりさせないため、現役時代と同じユニフォームを着れるように体型をずっと維持するべく節制に努めていたという。桑田真澄さんもそう。今でも甲子園で投げていた頃の初々しさが面影に残っている。

僕は清原という選手は、現役時代から好きじゃない。とはいえ、80年代西武に在籍していた時の清原は才能溢れていたし、顔つきもシャープでとても恰好のいい選手だった。巨人移籍以降はだんだんおかしな方向に変貌していくけど、今となっては何をどう間違えてここまで酷くなってしまうんだろうという思いを拭えない。

自分の良さを認識できていなかったのか、抗う力がなかったのか...いずれにしても「変わらない」というのはとても価値があるし難しい。


今年の夏、32年ぶりに二作目が発表されるトップガン2 マーヴェリックに出演するトム・クルーズ。彼も変わらないことの価値を良く分かっている、そしてそのために努力をしている人だと思うな。

心寂しき人よ

孤独感というのは、心の繋がりが感じられないときにおこるもの。だから、ワンサイドで人を好きになると心に寂しさを感じるのだ。繋がりたい相手と繋がれないから。

『心の繋がり』が鍵だから、幾ら大勢の人と出会いがあろうが、時間を過ごそうがそれが満たされるかどうかは関係ない。むしろ、多くの人に出会っているのに、自分と繋がれる人はいないのだ…という絶望に近い虚しさの方が大きくなるだけ。

そして、物寂しいときに周りに寄ってくる人間というのは、刹那で薄いつながりしか持てない人。類は友を呼ぶ。

そう。求めるものは得られない。それどころか、自分を傷つけるだけの意味のない、無駄な行為なのだ。

人との出逢いを求めて闇夜に散弾銃を撃つくらいなら、暗闇の中で独り心が豊かになれる時間を持つ方がいい。特に自立して自分の世界を持っている人と繋がりたいのならね。

松本隆の歌詞の世界

『わたし、松田聖子がライブでアルバムを出していた頃に産まれたかったなぁ…』

最近、松田聖子のアルバムをサブスクリプションで聴きまくっている娘。紅白歌合戦の紅組トリは、聖子ちゃんでよかったんじゃね? MISIAじゃなくって。という彼女の意見には僕も賛成な訳です。

「やっぱさ、いい曲って80年代。しかも、松本隆さんの作詞のものなんだよね」

「アルバムでいくとCitronまで。それ以降は、お金を稼ぎたいこともあって、松田聖子の歌詞が多いのだけど、世界観がどれも一緒。決定的な違いは、歌詞を通して映像が立ち上がってこない、色がないということなんだよね」

『確かに!言われてみれば…』

「素敵にOnce Again なんて悪くないけど、曲でかなり補っている感ありなんだよね。そして、松田聖子の歌詞には多彩な女性の心が描かれてない。いつも、主人公が一緒。当たり前だけどね…」

『それでか…なんか違うと思った』

松本隆さんは、歌詞の世界に必ず色を織り込むって言っているよ。色がないときには、自分で作ってしまうって。"映画色の街"みたいにね」

瞳はダイアモンドだね』

「有名なシングルカットの曲だけでなく、B面の曲も当時は素敵なものが多い。例えば、Touch me, Seiko Ⅱに収録されているスピード・ボートとか。これも松本さんだよ」

『これ聴いたことない。良いね』

「80年代の歌が今でも素敵に聴ける一つの理由は、作詞家の力が大きいよね。NHK松本隆さんのスペシャルやったのあるけど、見るかい?」

『うん!見る見る!』


文学、音楽、映画関係は娘と価値観が一緒なところがあるのです。映像や色といった捉え方をするところも。

好きな音楽、歌詞、作詞家の世界観について世代を超えて語り合いができるって、いいですよね。