Homare's Diary

組織人事コンサルタントの徒然日記です

子供のように相手を好きになること

こと恋愛については、自分が相手からどう扱われたいか、見られたいのか・・ということを考えてみれば、絶対的な存在としてだと思うのです。


相対的な順位付けや、本命の抑えみたいな扱いをされるなんて、耐えられません。それって、愛じゃないです。そういう相手に振られることなんて、一時傷ついたとしても、ある意味本望だったりします。そんな、紛い物を仮に手にできたとして、何の価値があるのでしょう。


結局、何人かを振り分けて付き合うだなんて、その動機は自分が傷つきたくないということであり、相手の立場に立ったものではないのです。とはいえ、一点集中の恋愛も失敗が続くと、無邪気に100%相手だけってことができなくなってしまうものなのですかね。それって、僕から見たら『大人としての退化』だと思うのです。


そういう視点で恋愛をすると、同類項の人間しか自分の周りには集まらない。いくら人数が多くいたとしても、ほんとうの意味で自分を見てくれるわけではなく、心の乾きは癒やされない。


僕は、愚鈍で美人じゃないけど、自分を捨てた相手を一途に信じ続ける”みっちゃん”がとても好きだったりします。みっちゃんとは、遠藤周作『わたしが・棄てた・女』に出てくる女性です。


みっちゃん(ミツ)は、雑誌の文通欄で出会った主人公の性欲のはけ口とされて、2回目のデートで体を奪われます。主人公は小太りで田舎臭いミツのことを嫌悪し、以来彼女には会おうとしません。

 

主人公を一途に愛し続けるミツでしたが、彼女の手首には赤いあざがあります。大学を卒業した主人公は、勤め先の社長の姪である三浦マリ子と親しくなり、かつてマリ子がミツと共に同じ石鹸工場で働いたことがあることを知ります。


さらに当時開業したばかりのソープランドへ行き、ソープ嬢からミツがここでも働いていたと知ります。どこかミツが気になる主人公は、ある日ミツと再会しますが、彼女はハンセン病の疑いがあり、精密検査のために御殿場の病院に行かなければならないことを涙ながらに訴えます。そんなミツに主人公は、おざなりな慰めの言葉をかけ、逃げるようにその場を立ち去ります。当初は、病院に強烈な抵抗を抱いていたミツですが、次第に病院に解け込むようになります。その矢先にミツは誤診であり、ハンセン病ではないことがわかります。


喜びを感じ東京へと戻ろうとするミツでしたが、急に孤独感を深め、患者としてではなく今度は奉仕の日々を送る修道女たちを手伝うために、病院へと戻ります。マリ子と結婚した主人公は、ミツのことが気になり年賀状を送りますが、ひとりの修道女から返事が届き、ミツが交通事故で死亡したことを知ります。その長い手紙には、命の灯が消える間際、ミツの遺した言葉が記されています。


ミツの最後を見届けた修道女は言います。


「私は時々、我が身と、ミッちゃんをひきくらべて反省することがありました。『汝、幼児のごとく非ずんば』という聖書の言葉がどういう意味か、私にもわかります。『伊豆の山々、日がくれて』という流行歌が好きで、石浜朗の写真を、自分の小さな部屋の壁にはりつけている平凡な娘、そんなミッちゃんであればこそなお、神はいっそう愛し給うのではないかと思ったのです。あなたは神というものを、信じていらっしゃるか、どうか知りませんが、私たちの信じている神は、だれよりも幼児のようになることを命じられました。単純に、素直に幸福を悦ぶこと、単純に、素直に悲しみに泣くこと、そして単純に、素直に愛の行為をできる人、それを幼児のごときと言うのでしょう」


遠藤周作さんも、小説に登場させたみっちゃんのことがとても好きだったそうです。そして、愚鈍で相手のことを疑いもなく信じて愛する”みっちゃん”のような大人でなければ・・と思うのです。