大学野球部の先輩で大手都市銀行に就職したTさんという方がいた。
1992年というバブルの残照が残る当時は、リクルーターという大学の先輩が目ぼしい後輩を誘い会社に引き込むという仕掛けがまだあった。僕は、大学の体育会関係の先輩リクルーターから来たオファーは、基本は電話だけで断ることにしていた。
大学1,2年のときこそ、俸禄の高い金融機関に就職した先輩たちは凄いと思っていた。だが、授業にろくに出ない、文学作品なんてものも読まない、おまけに後輩を顎で使うようなデリカシーの欠片もない体育会の人間をこぞって採用する企業には、ある種の胡散臭さを感じ始めていた。きっと、物分りの良い兵隊として採用されるに違いない。幹部候補としてではなく・・・だいたい、役員の顔ぶれを見れば、二流私大なんて独りもいない。そんなところに有難がって行ってはだめなのだ・・と。
それでも、Tさんだけには会ってみようと思ったのは、彼が極めて実直な性格であり、勉学も優秀で先輩風を吹かすような連中とは一線を画していたから。
M銀行の築地支店に配属されたというTさんに会ったのは、有楽町の喫茶店だった。何を話したのかはあまり覚えていないが、大して面白くなさそうな仕事をさせられているのだな・・ということだけは話の内容で悟った。Tさんにして、そのような仕事をさせるのか、案の定であったもののやはりガッカリだった。
そして、僕が最もショックだったのはTさんの革靴を見た時だった。およそ油気が抜け、表地の黒が掠れてしまっている爪先・・
好きな娘の、ふとした仕草を見た瞬間に一気に恋心が冷めていくような感覚。もともと洒落っ気がある人ではなかった。でも例え、中小商店相手の融資獲得業務という俗にいうところの『ドブ板営業』とは言え、社会人らしく颯爽としていて欲しかった・・・
掠れた爪先の靴を見ると、その時のことを時々思い出す。