フランスの文学者で「愛について—エロスとアガペ」を記したドニ・ド・ルージュモンは、愛と恋の違いについて、こう言っています。
「惚れるのは状態であり、愛するのは行為である」
若い二人が恋に落ちる。うちに結婚を行い子供が生まれ、守るべき家族ができる。男女愛は家族愛にステージを移していく。家族愛とは、守るべき存在のために自己犠牲を払うということ。欲しいもの、自己の価値観から見て譲れないものがあってもそれを諦める。そして、そこに見返りを求めない。それが家族愛。
男女愛のステージにおいては、往々にしてすれ違いが生じます。女性においては、一般的に自分が“一番”になるより、“唯一”であることに拘る。反対に男性は"一番"に拘る。この価値観のズレが溝を生み出す。
すべてがオールクリアにならない、なりようがない状況。全てを手に入れることなんてできない。全てを手に入れられなくても、互いの存在を大事にする気持ちがあれば、きっと乗り切れる。とはいえ、唯一か一番かというすれ違いの溝は埋まらない。決定的な違いとなってしまう。
高杉晋作が愛した『おうの』という妾。彼女においては、"唯一になりたい"という想いは完全に封印されていたようです。そしてそんな彼女のことを高杉晋作も終生慕っていたようです。
一方で太宰治が入水自殺をともに遂げた愛人の山崎富栄は彼を唯一の存在とするために心中という選択を取ります。唯一の愛を取って相手を殺した富栄、自己犠牲の愛をとって晋作に慕われたおうの。これがエロスとアガペの違いなんでしょうね。