Homare's Diary

組織人事コンサルタントの徒然日記です

手賀沼エコマラソン

我孫子、柏を舞台とした手賀沼エコマラソン。近年では、レース後に実家に立ち寄ることも含めて年中行事の一つなっています。問題は、人気のある大会のためうっかりしているとレース受付がすぐに締め切られてしまうこと。

毎年エントリー受付は5月末から6月頭。今年この時期はアキレス腱断裂の治療期間だったため、エントリーには躊躇したのです。そもそも、半年でマラソン大会で従来通りに走れるのか。出る以前の状態にとどまる可能性も含めて全く読めなかったこと。その時は、まともに歩けるようになることが目標だったから。


ひとまず、ここまでに治すことを目標に据えエントリーすることにしました。当たり前だけど、3ヶ月も足を動かない生活というのは、相当に筋力が低下します。一方で体重も増える。6月下旬から走り始めたものの、最初は距離もスピードも全く出ない。そもそも、走れるようになっただけでマシだから、贅沢は言えないわけですが。


それでも10月には感覚的に9割というところまでは何とか持ってくることができたわけです。

レース当日。レース後に周囲を自転車で探索することも考え、自転車を持ち込むことに決めたものの。輪行バックに自転車を積んで電車でいくべきか、それとも45キロの行程を思い切って自転車で行くべきか。

昨年は、輪行バックに出し入れする際の解体と組み上げに想像以上に手間取り、スタート時刻ギリギリだったこと、しばらくは輪行バッグを使っていなかったこともあり、昨年以上に手間取ることを予想し、思い切って現地まで自転車で行くことを決めたわけです。(この背景として、実家の母は免許を返上し好きな地元の様々なところを自由に巡る足がなくなったこと、自分の車は家族の足のために置いて来ざるを得ないことがある。ま、大人しくしてりゃ良いのですが、じっとしていられないので)

45キロの行程は、約2時間半と見積もったものの、都内は信号待ちなどで案外と時間がかかる。日本橋から国道6号線に入り江戸川を越えると巡航スピードが回復。帳尻は合ったもののレース前に45キロ自転車で走ってくるというのは、まあまあスタミナを失うことを実感。ほとんどバイアスロン

レースは、気温が曇りで抑えめだったこともあり、イーブンペースを守って1:40:30。慣れ親しんだ手賀沼の湖畔を気合い入れて走るというのはなかなかいいもの。30分台ではゴールできなかったけど、想像以上にいいペースで走れたと思うわけです。

レース後は実家に立ち寄り、帰りは輪行袋で行こうと解体をしたのですが、想像以上に手間取ることに…やっぱり行きは体力が消耗しつつもバイクで行ってしまったのは正解だったのか…いやいや輪行パッキングもっと手早くできるようにならないと…

心の隙間と高級アイテム

必要以上に持ちたくなるアイテムというものは、心の隙間・・コンプレックス・・を埋める補填材のようなもの。

それは、若さを失いスポーティーに動けなくなった男においては、コンマの世界を測る世界に生きてもいないのに、精緻に計測できるクロノグラフであったり。公道では半永久的に能力を発揮することが出来ないスポーツカー。秀麗なプロポーションを維持できない女性においてはエレガントなブランドバッグ・・・

でも、心の隙間はモノでは決して埋まらない事だけは確かで。いくら上質なアイテムに囲まれていようが、その効用は一瞬。内なるところで解決しようとせずに、外に求めだすとキリが無くなる。自分でも、心の隙間が空いている時のサインというのはあって。それは、新しい時計や文房具が無性に気になるとき。

自分の体にきちんと向き合えているときには、使い古したLUMINOXTIMEX IRONMANでいいし、しっかりと学び成長していれば、使い古したセーラー万年筆で十分。

先日、玉川高島屋で一人で時間を潰さなくてはいけない間があったので、アンティークの時計や文房具をじとーっと見ていたのだけど。これはあんまよろしくない兆候。

細君を見ていてすごいと思うのは、装身具やアイテムに対してまるで頓着しないという事。お金があったらいろいろ欲しいけど。。とはいうものの、モノに拘っている様子はあまり見たことが無い。キッチン用品位だろうか・・

幼少期から今までのコンプレックス・・少なくともモノで埋め合わせる類の・・が少ないのだろうな。きっと。

芸術より自然の造形美

優れた芸術作品を数多く収集するコレクター。こういうコレクターは最終的にどんなものを欲しがるのか。美術館からの帰り道。吉田さんは、乗換駅のホームから見えた見事な夕焼け空をみて思いつく。

~巨万の富や名誉を手に入れた後、次に人が欲しくなるのは、この夕焼け空なのかもしれない。もちろん夕焼け空に限った事ではない。美しい天の川。澄み切った清流。森の朝・・・。

全てを手に入れた人は、最後にそんなものを欲しがる。しかし夕焼け空はどんなに願っても手に入らない。ちょうどガラスケースに入った青磁楕円盤と同じように。
と考えると、絶対に手に入らない夕焼け空の代わりに、この世にはマーク・タンジーの赤一色で描かれた<サント・ヴィクトワール山>があるのではないか・・・
ANA 翼の王国 10月号 <空の冒険> 吉田修一

巨万の富と名誉を手に入れた後、人が最後に欲するものは芸術で。その芸術というのは、決して手に入らない無限の美しさを持つ自然の造形美の代わりになるもの、というのはある意味で的を得ているだろう。

とはいえ、巨万の富や名誉が手に入ったあとでなくても、自然の美しさを賛美し、愛でることなんていくらでもできる。

きっと、美術作品のコレクターになるような人は、僕の様にいつも仕事の手を休め、空を見上げているようないい加減な人間ではなく。夕陽も月の輝きにも目も呉れずに、人生を突っ走ってきたことの埋め合わせを、稀有な美術作品を集めることでしているんではないかなと思う。

でも、神の創った唯一無二の自然の造形美に敵うものなどあるはずもなく。結局、幾ら集めても足りないという事になる。であれば、常日頃から意識をして、自然の美しさに目を留めていく方がいいのかもしれない。

ルーツと勇気

僕の息子の一人は僕に似たのかモータースポーツが非常に好きで、今どき珍しくF1放送はすべてチェックしている。過去の有名なレースやドライバーも見ているため、結構話が合う。もちろん贔屓のチームはホンダだ。

イタリアでもモンツァサーキット、フェラーリ、パガーニ、ランボルギーニミュージアムも彼と二人で巡った。

そんな彼は、今年日本グランプリを見に鈴鹿に行った。台風接近のきわどい状況だったけど、何とか名古屋に行きレース観戦。本戦レースは、応援するホンダ フェルスタッペンが早々にリタイアする残念な結果だったのだが…

三重には初めて行った彼だったので、本家は三重の津にあることを教えてあげた。曾祖父の出身は、三重の津であり、東京に出て銀座で文房具店を経営。幼少期の僕の父は、築地で好きな赤身の刺身をよく食べていたのだそうだ。(そして、なぜか息子も赤身の刺身が好物だったりする)


その後空襲などもあり栃木に疎開。そのまま栃木で生涯を終えた。

東京にいたときには高輪にいたらしく、奇しくも僕の父と息子が生まれた港区の病院は、全く一緒だったりする。僕の父は、自分のことを全く話さない人であったため、そうしたことがわかったのは死ぬ直前だったのだが…


そうしたことを何も知らない息子から見ると、栃木や千葉の人間だと写るのだが、実は違っているのである。そして、家系図をたどると三重の武士の出であるところまで分かっている。

自分が初めて赴いた知らない土地にルーツがあったという話を初めて聞く彼。よほど新鮮だったらしくいつになく嬉しそうな表情で聴いている。

『お父さんも三重の津に行っていないのなら、行くとしたら僕とお父さんしかないじゃない…』

自分という存在は、自分一人で成立しているわけではない。自分が知り得ない多くの人たちの想いや苦労の系譜の果てに成立しているもの。だから、そうしたことに想いを馳せれば、孤独なんかじゃないし、自信も沸いてくる。今の若い人たちの自信の低さというのは、核家族化によって自分のルーツを意識することが難しくなったからなのかもしれない。

アイデンティティを貫く覚悟

組織・人材分野・・中でもキャリア領域のテーマとリクルートという会社の人材と事業をすることへの関心。これを形にするために最善の手段だったのが、僕のスポンサーとなっているN社とリ社での共同事業を形にすることだった。


共同事業の意義と将来の可能性、そして展開に向けたプランを練り上げ、N社の関係者に説いて回った。事業の意味はあくまで個人の内にあったものだったけれども、N社においても十分に大義があるものだった。

 

保守的でトップ企業のプライドを持つN社。まるで性質の異なるリ社と諸手を挙げ共同事業に取り組もうなんて話には最初からならなかった。


クライアントのT部長は当初こそ話に乗ってくれたものの、リ社のトップと会話を重ねるうちに言葉には表さないまでも拒否反応を示しだすようになっていた。そして何よりこの事業は成功が必ずしも保証されたものでなかった。上のキャリアを狙う若きT部長においては、この段階で失敗の汚点がつくことは避けたかった。果たして、共同事業の話はフェードアウトをさせるべく、その意思が僕に告げられたのだった。


内なる意味、N社にとっての大義、一方でのT部長の腹の内。僕はT部長への忠義より前者を採ることに決めた。コンサルタントとしては、背信行為にもあたってしまう。だが、N社の社長や事業統括部長の立場でこの意思決定を考えたら、背信行為にはならないはずではないか。


言質を取るべく、僕は社長と統括部長に状況を説明し直訴をした。T部長にとっては、寝耳に水の出来事。僕の行為はT部長に糾弾されつつ、大会社のN社社長や統括部長の庇護の下で僕は守られ、新規事業の推進リーダーとして僕は事業を継続することになったのだった。


多くの関係者を混乱に巻き込み、自身においては退職勧告までも突き付けられた出来事。でも、内なる意味を仕事に100%反映させた毎日は至福の一時だった。全くの未経験、未知の分野だった組織、人材分野。リ社との共同事業の中で、真っ白だった僕のキャンバスには形と色が徐々に形作られていくことになった。選択は間違えていなかった。


そんな中、何度かリ社の人からは声をかけていただいた。
『お前は、この会社に向いている・・』


僕はその呼びかけには応えなかった。そもそも、僕は事業会社を志向する人ではなくコンサルタントという仕事を愛してきた人間。そこで積み重ねたものも無くしたくなかった。そして何より組織・人の分野においては圧倒的に知識、経験が足りないと思っていた。自信もなかったのだ。


共同事業を行った夢のような3年間が終わったあと、僕はここで見つけた確信を拠り所に、テーマをコンバートすることにした。事業部も変え、そして最後は専門会社に転職をすることにした。


30代も半ばにして知識と経験をご破算にして新たなテーマに臨む。傍目には格好よく映るかもしれない。毎日むさぼるように本を読み、ノンチャージで良いのでプロジェクトに入らせてくれとPMにお願いし、知識と経験を少しでも積み上げられるように必死だった。独り身だったら良いかもしれない。でも家族5人の生活を預かる中で、新たなチャレンジというのは正直綺麗ごとだけでは済まなかった。短い時間で立ち位置を築かなければ、家族を不安の下にさらしてしまう。


そうして30代が過ぎ去り、40歳のタイミングで僕はリ社で仕事をすることになった。またしも新規事業開発のスタートアップメンバーとして。時はリーマンショック後でコンサルティング会社においては全く案件がなかった。これも天の声。


満を持して始めたリ社での新規事業開発だったが、当初はまるで形にならなかった。コンサルタントとして外部からアドバイスをすることがなんと簡単なことか。事業が形にならなかったら、1年契約更新のプロ契約は終了。全知全能を振り絞って生き残りと事業のブレイクに向けた糸口を探すしかない。心を抉られるような3年の苦闘の果てに事業はなんとか形になった。


事業会社、コンサルティング・・会社のドメインを変えること。テーマを大きく変えること。不安定な環境でもいかに初志を貫けるのか。最初のうちは必ず愛と覚悟が問われる試練が来る。そして新規事業というのは、起業精神そのもの。組織における意義よりも個人の中にある情熱と確信のほうが大事だと今でも思っている。

リーダーに必要な情熱

物が燃えるためには、条件がある。可燃性の物質、酸素、温度だ。

最後の条件である温度は、意外と見落とされがちである。湿った木が燃えにくいのも、冬のキャンプで火をおこしづらいのも、燃焼点まで温度を上げることが難しいからだ。

同じ法則は、組織・人にも当てはまる。モノ・カネのリソースは可燃物であり、酸素はコミュニケーションによって供給される情報。そして、情熱を持ったリーダーだ。

感情を表にださなくてもいい。ただし、リーダーはエネルギーを持った人でないと、燃える集団にはならない。燃える集団は、個々の足し算ではなく掛け算の力が出る。

目標が明確でビジネスモデルが確立された事業で成果を短期的に上げるのであれば、リーダーに情熱なんて必要ないのかもしれない。でも、長い間成果を出し続ける、不確実性の高い中で臥薪嘗胆し、成果を生み出すような組織においては、リーダーの情熱は欠かせない。

残念なのは、多くの企業でリーダーに必要とされる要件として、情熱(人をエナジャイジングする)は明確に定まっていない事。

この結果、目に見える成果だけに執心する人間が抜擢されてしまう。果たして感情の機微に疎く、情熱のない人間のもとで働く人は、心がやせ細ってくる。

『生きるって自分を燃やすこと、振り向いて悔やんだりしたくない』(渡辺美里 Grow'in up)

誰しも望んでいるのは、自分を燃やし、振り向いて悔やまない働き方、生き方なのだから。

研修生徒のクラスメート

『同級生だよね。覚えてる?』

東東京に本社を置くG社の50代キャリア研修。クラスが終えると話しかけてくる一人の社員がいた。

『小学校同じだったよな。やりづらいかと思って声をかけなかったんだけど…』

記憶を辿ってみる。特徴のある名字。僕の中にある小学生の時のイメージとは大分変わってしまったけど、小4の時のクラスメートだったN君だった。

N君は、勉強もスポーツも万能だった。しかも、ちょっとハーフっぽくて格好も良かったから、女子にも先生にも人気があった。

僕の住んでいた学区域は、当時は人口が急増しており小6で2つの学校に分校し、卒業は違う学校となった。そして、地元の中学に行ったN君、僕は茨城の私立にいったから小4以来、N君と会う機会はなかった。

分校以来、唯一会った機会がある。それは、小学校6年の時に開催された我孫子市の小学陸上競技大会だった。互いに学校代表の持久走選手としての対決だった。

スポーツ万能だったNくんと違い、小4の僕は勉強もできなかったし、スポーツはからきし駄目だった。先生からは、問題児として目をつけられひどい扱い。

当時の小学校には、運動能力バッチテストというのがあった。それは、複数の運動能力テストにおいて基準レベルを大きく超えた生徒にのみ与えられる『バッチ』であり、ビニールカバーの名札に穴を開け、そのバッチを勲章のごとくつけるのが一つのステータスだった。運動会の学級対抗リレーの選手でもあったN君はもちろんバッチホルダーだった。

僕においては、遠く手に届かない代物だった。

それから、二年たった小6の対決は何か感慨深いものを感じたのを覚えている。10校ほどの学校で代表二名ずつの争い。僕は上位ではなかったけど、N君より上位でゴールしたから。


小6の僕は、おおよそ縁遠いと思っていたバッチも手にしたし、学級対抗リレーにも選抜された。昔のドジでのろまのカメから脱却したのだ。その時、N君は僕のメルクマールの存在だったのだ。


『おれさ、昔はいやなやつだったから意地悪とか変なことしてない?』

「いや、ないよ…」

確かに大人受けもクラスメート受けもよかった彼は、そのせいかちょっと鼻持ちならないところもあった。けど、僕は特段何をされたという訳でもない。

『お前もいろいろあったんだなあ、今日はいろいろ教えてくれてありがとう。これからもよろしく…』


50代ともなると、同級生が研修対象になるのは分かっていたけど、まさか…ね。