Homare's Diary

組織人事コンサルタントの徒然日記です

貧しき人は幸い

狡猾な手段で人を陥れようと躍起になる人間がいる一方で、力に屈せず正しい主張をしてくれる人がいます。

誰が自分にとって信頼できる人間かは、自身が窮地に陥った時の態度で分かるものです。権力者が白を黒と塗り替えることに積極的に加担する人、明らかに距離を置く人、中立と装いながら関わって欲しくないというオーラを出す人、信念に基づいて援護をしてくれる人。

自分が手にした地位や名声を捨てたくない人は、火中の栗を拾うようなことはまずしません。

地位や名声なんてものに頓着していない人、そんなものを持っていない人は、権力者が振りかざす『正論という名を借りた暴力』のおかしさに素直に反応できる。


心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。(マタイ 福音書5章)

心の貧しい人とは、物質的に貧しいだけでなく、世間からも圧迫され失望し、神の助けを必要とし、これにより頼むしか生きて行けない人々を指します。

持たざる人、虐げられている人こそが天に上げられる。一方で金持ちが持っているものを放棄せずに天の国に行くのは、駱駝が針の穴を通るより難しい。

実際そういうものなのだよね…

大人の魅力

本当の自信がなく、立場を脅かされていると感じている臆病者ほど、人を貶めることによって自分の立ち位置を確保しようとする。そこまでいかなくても、自分の思っていることを押しとどめ、権力者の言うなりになってしまう人は多い。

自分の中にある真善美の基軸よりも、相対的な成功、生き残りというのを選ぶのが大人になると言うことであれば、なんて魅力の無い生き方なのだろうか…

でも、自分らしさを大切に抱え、大人になっていくためには、様々な意味で強くなっていかなくてはならない。思った言葉を飲み込み、酒で気を紛らわせていたら、内外ともに自分は崩れてしまう。

フリーランスや起業家で立ち位置を築いた方においては、少年らしい志や情熱を変わることなく心に湛え、瞳が輝いている人が多い。彼らにおいては、自己の中にある大切なものを理解し、それを侵されない強さを持ち合わせているからなのだと思う。

大人になるということが、そうであれば素敵なのにね…

魔性の女

多分、あの子は魔性の女という類いの人なのだろう。魔性の女とは、天性に男性を惹きつける魅力を持った人であり、計算して男性を虜にしようとする小悪魔の女とは違います。

魔性の女の特徴は諸説あると思いますが。

・隠された闇の部分を持っている
・甘え上手、愛嬌がある
・気まぐれ、感情の抑揚が激しい
・意外に群れない
・人を殺せる目を持っている

そして、同性には全く好かれません。

こういう人は、本人が全く意識をしなくても磁石が砂鉄を引きつけるように、男性が吸い寄せられてきます。それだけならいいのですが、何としてでもモノにしようと後先を考えずにおかしな行動をとる人間も必ず出てきます。別に本人がそそのかしているわけでもないのですが、なぜかそうなるのです。

竹内まりやの『けんかをやめて』

という歌がありますが、私のために争う男達…あれは魔性の女が主人公だね…

さて、魔性の女には深く関わらないに越したことはありません。こういう人は、人を幸せにするパワーを持ち合わせていないケースが多いからです。

幸せというのは心一つの置き所ですから、地獄にこの人となら行ってみたいと思わせてくれますので、狂わされた本人はそれでいいのかもしれません。ただし、夢から覚めたら取り返しのつかない事が待っていたりするのです。

焼きが回る

焼き入れの際の火が行き渡りすぎ、刃物の切れ味が悪くなることから転じ、年をとるなどをして頭の回転や腕前が落ちるなど能力が下がることを意味する。

人は歳を取ると大なり小なりどこかに焼きが回るものだ。問題を防ぐには、そこを自認して不完全さを補うべく周囲からの助けを請うことだ。歳をとっても衰えないものもあるのだから。

実績、年功によってそれなりのポジションに祭り上げられると、自分が全能であると勘違いする。そして権力を持つ人間には真実の声が伝わりづらいという本質を解せず、裸の王様になってしまうこと。

こうなるといよいよ焼きの回りも早くなってくる。自分に都合の良いところだけを見て悦に浸る。少ない情報でバイアスを持って物事を判断する。問題は他人のせいにする。もっと悪くなると自分に聞き心地のいいことだけをいう人間しか周りに置かなくなる。

これが老害のメカニズムだ。

焼きの回りやすい人の特徴は、誰彼かまわず同じ話を何度もする。人の話を取り上げて自分の自慢話をする。興味関心が自分にしかない人だ。要は聞く耳を持たない人。

いつまでも純粋な心で周りのことに好奇心を持ち続け、謙虚な人でありつづけたいものである。

孤高のメス

ピッツバーグで外科医として腕を磨いた当麻医師は、片田舎の港町にある萎びた市民病院に赴任してくる。彼は、その実力に見合った富も名声も視野にはない。彼が求めたのは、目の前で救える命を自分の手で丹念に救ってあげること。

市民病院は、系列の大学病院の顔色をいつも伺っている。送り込まれた腕の悪い外科医による医療ミスも隠蔽するし、彼らを受け入れるポストを確保し、機嫌を損ねないようにすることに余念がない。患者に向き合うという姿勢が全くないのだ。

ひたむきな仕事ぶりと権力におもねない清々しい生き方の当麻医師は、慣習に雁字搦めになり、仕事に誇りを持てなかった他の医師や看護婦たちをみるみるうちに変えていく。

そんな中で、重篤の肝臓癌を患ったクランケが入院してくる。肝移植が必要だが、合致する生体肝移植のドナーが見つからない。そこに、脳挫傷脳死となってしまった少年が運び込まれてくる。少年は、ボランティアにいそしむ心優しい少年だった。

少年の母は、彼の臓器を病気の人のために役立てることが最後の意志だと当麻先生に願い出る。ただし、80年代においては脳死判定が確立されていない。脳死肝移植は、殺人罪で告訴される恐れもある。だが、当麻先生は日本で初めてとなる脳死肝移植のオペに踏み切る決断をとる。終わったら病院を辞すことを決めて…


堤真一主演『孤高のメス』

もう10年も前の映画。堤真一の演技は、主人公の魅力を際立たせていた。恐らく病院の背後におけるどろどろとした部分は、実際に真実だろう。だが、人としてどこに価値を置き生きるのか。その崇高さは触れた人たちの人生も変えていく力を持っている。

最近、邪な思いを持って自分に接してくる人に心煩わされる事が続いていたので、心が洗われた気分だ。

キャリア研修を牽引する人

『キャリア』をテーマとする仕事に出会ったのは33歳の時。学生時代の大病を機に、生きていること、はたらくことを考え、時の出逢いと気持ちを大切に仕事を選んできた人間においては、格好のテーマと思えるものだった。ターゲットは、若年。

これを機会に組織・人事へと専門領域を切り替え、再びキャリアに取り組む機会を得たのは40歳。ターゲットは45歳オーバーの中高年。

年齢を経たからといっても、働き方、生き方を深めて考えて来なかったという点だけを見れば、仕事選びができない若年と何ら変わりがない。もっといえば自分を脇に置いて組織に埋没していた期間が長く、アップキャリアの可能性が望み薄の中高年に健全な危機感を持って将来のキャリアを考えてもらうのは、非常に難易度が高い。

何で若い僕が、オッサンの支援をする必要があるのか…という疑問も当初は抱いた。甘えてるんじゃないよ…と。

だが、賃金が高く変われない中高年の正社員の問題を日本企業は避けてきたから、若年に正規雇用の機会が回ってこなかった。小手先の制度改革を何度も繰り返さざるを得なかった。問題の本質は、日本的雇用という幻想にロックインされて、自分を忘れ居場所を見失った中高年社員達の意識、行動変容にある。

電力会社を定年まで勤め上げ、定年後は糸の切れた凧のように規律を失ってしまった父親の姿がオーバーラップした。奇しくも親父は、人事部安全衛生。健康管理の必要性を説く側にいたくせに、自分の健康管理はまるでできなかった。生きること、働くことの自分にとっての意味を見いだしていなかったからだと思う。

様々な企業の中高年向け研修の企画を行い、研修の立ち会った。様々な会社の社員も見てきたが、8割方はまともに考えていないという点は共通だった。何事にも終わりがある、大事なことは先延ばししちゃいけない、という大原則をこの人たちは分かっていないんだ…そう思った。

そして、いつももどかしく思っていたのが研修講師だった。組織論理と個人感情の交差点に立って、適切な運営を行える講師がなんと少ないことか。自分は若いし前には到底立てない。

気がつくと10年がたち、受講対象者と同じ年代。前に立つ機会も多くなってきた。でも、僕がやってしまってはこの事業は拡がりがない。

キャリア研修は、その人の生き方、考え方が隠せない。小手先技が効かない。だから自ずからできる人は限定される。『もっといい講師はいないのですか?』『次回以降も僕でお願いしたい…』いつも悩ましい…

いつかは研修講師とカウンセリングを専門にしても良いけど、今はその時期じゃない。講師として支えてくれる仲間はいないかな…

石を投げるものは

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」

ヨハネ福音書8節の一文。連日、鬼の首を獲ったように不倫、政治スキャンダルの報道にエスカレートするマスコミ、評論に明け暮れる人々。

クオリティ、タイムマネジメントコンプライアンス…一見正論を掲げつつ、普段の自身を省みることなく、人を追い詰めることに余念のない人はどこにでもいます。彼らにおいては、義は自分にあると思っていると思うのですが、ただのロジカルハラスメントです。

法律、倫理、規範とは、一体何のためにあるのか。それは、人を幸せにするためにある。そこに照らせば、解釈や運用も変わってくるはずです。決して人をつるし上げる根拠にするものではない。

そう。愛のない裁判官ほど質の悪いものはない。律法主義に凝り固まったファリサイ派のように。

人の罪を裁くのに余念を持つのはいい加減にして、その厳しい目は自分に向ければいい。

思い、言葉、行い、怠りの罪…

そうすれば、誰もがもっと笑って生きられると思うのです。