Homare's Diary

組織人事コンサルタントの徒然日記です

大人の彼女

プロジェクトで一緒になったことのない、入社1年足らずのメンティとの1on1。4月から担当となった彼女においては、手持ちの情報が絶対的に少ないのは否めません。一緒のプロジェクトでしたら話を良くしますから、相手のことは良く分かるようになります。そうでないといい仕事はできない・・と思っていますから。


スケジュールが立て込んでいたこともあって、何度かのリスケを経ての1on1。年度初めのこともあって目標設定をテーマにするところ。ですが、一度脇に置いておこうよ・・と話しました。


これまで彼女がどんなキャリアを歩んできたのか、これからどんな働き方をしてみたいと考えているのか・・それがあっての目標だよね・・そうじゃないと単に今年することだけを羅列することになってしまう。そんな目標叶えてもハッピーじゃない。それじゃ意味がないよね・・と。


なぜ僕らの組織に入ってきたのか、いつから組織・人事に関心を持つようになったのか・・数社の経験を経てここまで歩んできた彼女の話は、初めて聞く話ばかり。彼女がもっともやりたいと思っているテーマや価値観は、僕と被るところも相当にあります。HPでエントリーしてこの会社に来た経緯も僕と似ています。一見分からないのですが、彼女には明確なWillがあるのです。


「今のクライアントとテーマだけで満足してないでしょ?もっと様々なことをやってみたいと思っていません?」


『そうなんです。自分なりに経験を生かせるとは思っているのですが、それ以外のこともやってみたいんです。でも、この仕事では経験浅いからどこまで言っていいかわからないし、話してもあまり真剣に取上げてもらえなくて・・』


「多分ね、淡々と仕事に向き合っているように見えるから、まだ大丈夫だって思われたんだろうね。でもね、変に大人にならないほうがいいよ。僕らの仕事は、アサインされるプロジェクトで成長が決まっていくからね。内に秘めただけだと機会を逃しちゃうから、もったいないよ・・」


『別の人にも、そう言われたんです。変に物分かりのいい大人を演じないほうがいいって。私、昔はもっと尖っていてやりたいことは、自ら手を挙げてやってきたんですけど・・』


「こうして話してくれたりすれば、アサインだって配慮される。それに、やりたいテーマがあるのだったら自分で仕掛けてくれてもいいんだよ。僕だってここにきてそうしてきたし、それを誰も阻まない。それがここのいい所なんだから・・」


『そうですよね・・。早速動いてみます。目標の中身も変えてみようと思います。最近ちょっと元気なかったんです。でも、なんか元気になりました』


夕方、彼女から丁寧なお礼のメールに修正された目標シートが添えられて送られてきていました。そこには自分の過去の経緯から、なぜここにいて、これから何をやりたいのか。誰にもここまで話すことができなかった。全部聞いて分かってもらえて嬉しかった・・と書かれていました。


目の前に見えているもの、限られた情報だけで、その人のことを分かった気にならないこと。変に義務感にとらわれて目標設定シートのレビューなんてやらなくて良かった・・と思ったのでした。

非日常体験の意味

人は苦しかった経験、辛かった経験を早く忘れがち。喉元過ぎれば熱さを忘れる…その通りなのだと思う。

 


これはこれで、そういうものなのだと淡々と受け入れながらも、やはり松葉杖生活というのはしんどかった。運動ができるとか、できないとかそんなレベルじゃない。家の中で、モノを持って移動できない。ちょっとした移動が途方もなく時間と体力を要するということだったり。

 


装具をつけながらでも松葉杖を使わない生活となって、一週間ちょっと。松葉杖も先週末にメルカリで速攻で売却してしまった。なんか、自分がそんな生活をしていたことが幻のように思える。

 


そして、うちに装具も外れ僕は通常の日常に戻っていく。異常な日常に置かれた記憶は薄れていってしまうのだろう。それは、それでいい。でも、忘れないようにしていたい。忘れないようにできれば、何気ない日常であっても明るさのコントラストは遙かに上がるだろう。

 


22歳の時の『試練の旅』が終わったときもうっすらそんなことを考えていた。退院するとすっかり落ちてしまった筋肉のリハビリを始めた。最初は、10回くらいしかできなかった。少しづつ回数を増やし200回の三セットという習慣が残った。習慣は、試練の旅があった記憶を後につなげてくれている。

 


もう一つは、好きなことは先送りにしない生き方をすること。人は突然に日常が断絶し、何も選べない状態になることがある。だから、やりたいことは先延ばしにしない。心に素直に生きる。結局、この仕事を選び、キャリアをライフワークにしているのも、この時の非日常体験が原点にある。

 


今回の『ドット』はどんな意味を持ち、何につながっていくのだろう。一つ確かなのは、自分には偶然を必然に変えていける力があること。そして、『今、ある』ことへの意味と感謝をしていくことなのだろう。

独白と対話

人は共通の思い出について、一時間ほどは、熱狂的に話し合うことができる。しかしそれは会話ではない。孤立していた懐旧の情が、自分を頒つことのできる相手を見出して、長い間夢見ていた独白をはじめるのだ。おのがじし独白が続けられて、しばらくすると、急に今の自分たちは語り合うべき何ものも持たぬことに気づく。二人は橋を絶たれた断崖の両岸にいるのである。(三島由紀夫 豊饒の海 奔馬


昔の友人に会った時に、何か満たされない思いをして別れる時というのがあります。先の表現はその理由を端的に言い表しています。それは、胸の内にしまっておいた懐旧の情を開示する相手を見つけ、熱狂的に独白をしただけで対話が成立しない。そういう相手だったことが明白になるからなのでしょう。


僕が一番苦手なのは、「独白」を延々とする人との座です。僕なりに結節点を探して会話を紡ごうとするのですが、そういう人に限ってそうした努力はまず徒労に終わることが多い。その人は自分のことにしかしょせん興味がないからです。ですから、「独白」しかしない人とは僕は自分から酒を飲むことなどは決してしません。相手を心地よくするだけで、まずもって時間の無駄だからです。

 

そもそも、独白をしたいのであればこういう形でいくらでも好きに独白できるわけですから、わざわざ生身の相手に時間を拘束してまでする必要は僕には全くないのです。


やっぱり、愉しい場というのは対話を心がける相手といるときです。そして、それは年齢は関係ないように思います。

受難節を超えて

キリスト教で40日というのは特別な意味を持っている。イエスが公生涯の前に荒野で40日を断食して過ごしたところから来ているのだが、受難から復活(イースター)そして昇天までそれぞれの経過期間も40日となっている。40とは試練と裁きを意味する数字なのだ。


22歳の時に患った難病で入院を強いられた期間は約40日。今回のアキレス腱断裂で松葉杖を余儀なくされた期間も約40日。面白い偶然。新たな自分として生きていくための準備期間・・なのでしょう。それにしてもですね、40日も体が自由にならないという試練というのはなかなか長かったです。


前回の時も言われたのです。大きな病気や怪我をしたとしても、その後に何の後遺症もなく治ったのだとしたら、それは生かされているということを気づかさせるための神様の啓示なのですよ・・と。


受難の40日が終わり、松葉杖という軛からようやく解かれる。空を見上げ、皐月の風を吸い込めるようになる。本当にそうかもしれない・・と思うのですよね。

専門医より総合医療

医療をテーマにした物語が好き。生死に関わる病気という問題を総合的な角度から検討し、機知によって解決していく。中でも好きなのは、緊急医療や総合診療の主人公。

 


相手を軸に物事を捉え、複合的に問題解決をする総合的診療医というのが僕の憧れであるし、目指すところ。縦割りの大病院に属していくことになると、総合診療医というポジションはなかなか叶わない。

 


一つの理想であるのは、DR.コト―診療所の主人公。名外科医でありながらも、医療ミスが発端となって離島に新天地を求めた。そこで総合診療医として腕を振るい島民からの絶大な信頼を築いている。可愛い看護師の星野さんと結ばれれば、理想的なハッピーエンドというところ…

 


大組織の中で企業の効率性の論理とシステムの中で切割された仕事をするのではない。収入はあまりもらえないかもしれないけど、患者としっかり向き合い気持ちのつながりを持てている。その方が断然豊かだ・・人間らしいって思えるからなんだろうと思います。

 


まあ、今の僕のいる組織は機能縦割りで専門医体制でないのはいいところなのでしょうね。

事をなすより、動機づけ

人の感情を理解する、想像することをせずして、マネジメントを行うのは、ある面で効率的かもしれないが弊害も大きい。

 


変化の激しい環境の中では、マネジャーが情報をすべて把握し、的確な意思決定を行うことなど困難。部下に権限を委譲し、部下からは見えていない視界の情報を与えていくことで、自律的かつ適切に仕事をしてもらう。それが最大の成果を生み出し、やりがいを生み出す。

 


自律の最大のポイントは『感情』。ポジティブな感情で動機付けされていない限りは、自律など生まれようがない。

 


頭のいい、仕事ができるといわれる人に多いのは、当座のポジティブな感情を持たずして物事を進めていける人である。彼らは、自身が目先のポジティブな感情の下に行動するというパラダイムでないから、他人に対しても同じように対応してしまう。

 


もっとも、彼らがポジティブ感情を持っていないというのではない。将来もたらされうるポジティブ感情を期待して行動しているといってもいいかもしれない。彼らにおける優先順位は、「いま・ここ」よりも「将来」であり、「人の心」より「事をなす」こと。

 


今の世の中が息苦しくストレスフルなのは、先の優先順位で動いている人たちが重用される仕組みになっているから。

 


人は幸せを求めて生きている。真実を見つめる目があれば、そういうパラダイムで生きている人と時間をともにすることは、無駄だと思うことだろう。組織の論理に染まっていない若者が、そうした会社に背を向けるのも分からなくもないのである。

分類信者の盲点

分析や論理を好む人は、人を見る時に言語化、数値化されていない要素は排除してしまう傾向がある。分かりやすい話でいけば、アセスメントで分類された情報のみでその人を理解したつもりになっている。

 


アセスメントによる分類の仕方には様々な切り口がある。科学的で正確性が高い…アセスメント信者は、その結果でもってその人を理解したつもりになりがち。

 


僕自身も様々なアセスメントを受けてみたけど、結局どのアセスメントも傾向を示すことは確かだけど、人はその分類がその人の100%ではない。様々な特性の中で、比率が高いだけだし、その出方は置かれた状況やタイミングで如何にでも変わる。また、アセスメントは一断面にしか過ぎない。

 


だから、結果を鵜呑みにしてその人を分かったかのごとく語るというのは、実に愚かしい行為なのだ。

 


それは、目の前の生身の人間に興味があるのではなく、分類して分かった気になっている自分に酔っているだけ。そして、人には本当の興味がないと表しているに近い。

 


大切なものは目に見えない。いくつになっても星の王子さまの至言は胸に留めておきたいものだ。