Homare's Diary

組織人事コンサルタントの徒然日記です

コンプレックスの強い世相

社会改革への熱情を向ける人の熱情の根底には、ある劣等感に裏付けされているようなところが多分にある。その劣等感は不遇な家庭環境だったり、田舎者であるという劣等感だったりする。

 


都会育ちの私たちは(決してそれを自慢しているのではない)人ずれがしているというのか、場慣れをしているというのか、進歩的文化人の意見や小説の中に描かれている前向きな学生たちの姿に接しても、そのために自分が振り回されるような受け入れ方は滅多にしない。人や物に対する一種の訓練が、大勢の人間がひしめいている都会生活の中で、自然に出来上がっているからだと思う。

 


そこへいくと、元村貞子の場合、映画や小説の中でしかあり得ない、奔放で、観念的な生活のイメージが、田舎者という劣等感に作用されて、現実に存在するかのような受け入れ方をされているのだ。私は、都会生まれであることを別に誇りにも感じていないように、元村貞子も、地方出身であることを、そう気にかけなければいいのにーーと思う。それは、たとえば若い男や女のおしゃれの仕方にしても、地方から出てきたばかりの人たちのほうが、あくどい趣味のものに陥りやすいのと同じ理屈だ。

(「あいつとわたし」 石坂洋次郎)

 

 

 

これは昭和30年代の日米安保闘争で学生運動に傾倒するクラスメートの様子を主人公が述べたものだが、普遍的な人間心理が秀逸に描写された文章かと思う。

 


こうした学生運動は日本では以降影を潜めていくわけだが、韓国などではいまだに活発である。香港も活発だったが力で押さえつけられてしまった。政治に対して関心が深い人たちが多いから…ともいえるのだが、やはりそのエネルギーの源泉は、実生活でのコンプレックスやそれを生み出した世の中への憤りのようなものが大衆に根強いからだと思う。

 

 

 

日本で安保闘争以降で共産主義思想が根底にある学生運動が下火になったのは、精神的経済的に豊かな生活が享受され、反体制のエネルギーとなるコンプレックスを持った人間が減ったからと考えることもできる。また、不正や汚職によって崩壊した官僚機構による行政ではなく、日本においては堅実かつ盤石な行政が暮らしを支えてくれたから。

 


ただし、近年その様子は変わりつつある。政治に対する関心は高まり、利権に歪んだ行政を改革しようと政治に新たに乗り込む人たちも現れてきた。

 


それは、昭和30年代のように日本が精神的経済的にも豊かではなくなってきたことの証だと思うが、現在におけるムーブメントは左傾化する体制を修正しようとする動きが大きな違いなのかもしれない。