人は自分が理解できない存在を深層的に恐れる。だから、初めて会った相手には恐れを抱くものであるし、そこに何がしらかの共通点が見つかると安心をするのである。生まれ故郷、出身校、趣味の類いなど。それが、自分自身の価値観であり、誇りにしているものであればなおさらである。
そして、相手を未知な状態としたままには違和感があるから、人間には様々な側面があるにもかかわらず、一面だけを切り取って、「あいつはこういうやつだ」という解釈を与え、理解をした体で済ませてしまうのである。いうなればレッテル貼りというやつである。
『人は多様性の中で普通は心理的安全性を保つことが出来ない』
これが事の本質なのである。組織において多様性が上がれば上がるほど心理的な安全性は損なわれがち。それを保とうとすると、自分という人間の解釈でしか異なる人を扱わない。そこに問題が生じる。
人種、宗教などのバックグラウンドが大きく異なり、自分の考えを周囲にハッキリと表明することを教え込まれている米国においては、集団における心理的安全性は常に脅威にさらされている。そこで、自己の心理的安全性を保とうとすると異質を排除する行為が頭をもたげる。このことを意識してコントロールしないといけないというのがダイバシティマネジメントなのだろう。
これが分からず、心理的安全性の向上を旗印にしている人を見ると、僕は気持ちが悪くて仕方がないのだよね。それは、心理的な安全性向上というモノカルチャな思想に人を染めようとしているエゴイストだと思ってしまうから。