Homare's Diary

組織人事コンサルタントの徒然日記です

集中から分散社会へ

企画書作成で煮詰まった頭を冷やそうと、いつもは近所のオオゼキに自転車で行く食材購入を重いものものあったので車で二子玉川に出たわけです。


RISEで食材を買い終えた後、蔦屋家電でも眺めて気分でも変えるか・・と立ち寄ったのですが、STAY HOMEのせいか日中帯なのにお店に結構人がいるわけです。(まあ、そのうちの一人)


家で仕事をするのもなんだし、パソコンもってコーヒー傍らにPCを打っているという人が結構いる訳なんですね。まあ、その気持ちわからんでもない。でもね。PCで作業するのはいいとして、パブリックなところにコーヒーカップをおきっぱにして、それを飲みながらというのもどうしたもんだろう。


この光景を見るにつけ、思うのです。


都心の高層ビルのぶち抜きワンフロアの集合オフィスの果たす役割というのは、この状況下ではもはやない。一方で、小規模サテライトオフィスを郊外に設置する必要があるだろうと思うわけです。高速ネット環境も静粛な部屋も確保できない狭小スペースのなかに押し込められて仕事をしている人って相当にいるはずです。


特に若い独身者は、ワンルームだったりして。そんなところで、朝から晩まで画面とにらめっこしていたら滅入ってしまう。都会の中の「檻」にいては、カタルシスを得るところがない。やっぱり、こういう場所に来る理由はそういうこと。

 

隈研吾さんは、建築の歴史は「集中へ」という一言に凝縮されてきたが、その流れが「分散へ」に逆転するきっかけとなったのが今回の出来事だった言っている。

 

本来は、境界も壁もない自由空間を駆け回って狩猟採集に明け暮れていた人類は、集まって定住を始め、やがて箱の中に詰め込まれて労働を強制された。それが効率的であり、経済的であり、幸福であると信じ込められて。そして、都心の高層ビルで働くことがヒエラルキーの上位にいることを意味し誰も疑わなかった。本当はデジタル技術が集中を必要とせず、効率と幸福を可能にすることを示したにもかかわらず。


分散は、セルフメイドに繋がって空間の民主化、自分自身で作る途が開ける。ビルのように自分ではどうしようもない素材を使わなくても分散のセルフメイドの環境はそれを可能にする。そこには、「集中へ」において見失っていた効率と幸福があるのだと。


そうなんだよね。「分散」「田舎」・・そうすると自分が身を置く組織だってもっと小さいセルでいい。大企業に身を置いて都会で滅私して働く必要なんてないのだろうね。それが人の本来の姿なのだから。