人が学ぶのは魂を表現し、能力を覚醒させることで精神的、肉体的、経済的自由を手に入れるため。それはリベラル・アーツの語源にもつながる普遍的なもの。
一方で日本においては年齢が増せば増すほど「学ばない」人の割合が多くなる。体系的に学ぶこと、新しい知識や経験を得る行動をせず、獲得した知識、経験の枠組みの中だけでいこうとする。しかも、「今の会社」という同じ土俵の中で。
人は本来自由を求める生き物。なのになぜ、自由を放棄するような生き方をわざわざしてしまうのだろう。それは、組織に属して称号を手にする「栄誉」こそが人としての幸せであり「成功」という刷り込みがあるから。
冷静に見れば、「栄誉」と思っていたものは、自由を奪う「重い足鎖」なのに。半沢直樹で出向があれだけネガティブに扱われるのは、傍目で見ても滑稽なのです。どこまで、組織に翻弄される生き方に固執するのか・・。本体に残れる、残れないなんてことに一喜一憂するなんてあほらしい。
親として子供に対して「何のために勉強をするのか?」ということになんて答えるのでしょう。いい大学を出たところで、組織に蹂躙される生き方をするために一生懸命に勉強するだなんて、とても言えないと思うのです。
確かに、僕の父親の時代は大学に行けないと、大組織の中ではせいぜい課長どまり。経済的理由で大学に行けなかった親父は悔しかっただろうと思う。でも、今や時代は変わったよね。大学なんて誰もが行けるようになったし、一方で大学を出たからと言って組織の中で幅を利かせられるわけじゃないのだからね。