「健全なる精神は、健全なる肉体に宿る」とするならば、不健全な精神は、不健康な肉体に起因する。
太陽の季節で作家デビューをした石原慎太郎氏は、太宰治などに批判的だった。「精神が不健康だ」と。それは肉体の健康が保てていないから。実際に戦中派作家の多くは自己破滅的な生活を送っていた人が多い。むしろそうした刹那の中に積極的に自分を置くことで非日常的な美を見いだそうとしていたとも思える。
石原氏にとってのアイデンティティは、強く健康な肉体であり華麗にスポーツを熟せる抜群の運動神経に立脚した「健康的精神」にあるとしていたことは紛いない。そして、そうした立場にある自身をある種の優越感をもって捉えていたのだろう。
だから、不治の病や難病に冒されている人間においては、業の深さからくるものだと上から目線で捉えてしまう。同世代の作家であった三島由紀夫氏に対してはボクシングの対戦をした中では運動神経を感じられなかったと蔑視もしている。
一方で、健康な肉体というモノは老化と共に失われていく。「老いてこそ人生」を執筆したのが今から18年前の69歳。老いとは無縁なAround70とはいえ、Around90ともなると世界は全く異なるものになる。脳梗塞、ガンを発症し、もはや健康を誇っていた肉体というモノはその原型を留めていない。それでも、不死の病から生還したということを誇らしげに語るところに強い肉体への執着を感じてしまう。
今となっては朱夏の鍛え抜かれた肉体をもったまま夭折した三島由紀夫氏の事を羨んでいるところもあるのではないか・・とも思う。そう、若く健康な肉体をもっていない老いた存在というのは、石原氏が最も忌み嫌う存在だったであろうから。