芸術というのは巨大な夕焼けです。一時代のすべての佳いものの燔祭です。さしも永いあいだつづいた白昼も理性も、夕焼けのあの無意味な色彩の濫費によって台無しにされ、永久に続くと思われた歴史も、突然自分の終末に気づかされる。美がみんなの目の前に立ちふさがって、あらゆる人間的営為を徒爾にしてしまうのです。
夕焼けの本質などというものはありはしません。ただそれは戯れだ。あらゆる形態と光と色との、無目的な、しかし厳粛な戯れだ。ごらんなさい、あの紫の雲を。自然は紫などという色の椀飯振舞をすることはめったにないのです。夕焼け雲はあらゆる左右対称(シンメトリー)に対する侮蔑ですが、こういう秩序の破壊は、もっと根本的なものの破壊と結びついているのです。もし昼間の悠々たる白い雲が、道徳的な気高さの比喩になるなら、道徳に色などついていてよいものでしょうか。(三島由紀夫 豊穣の海 第三部 暁の寺)
夕焼けの素晴らしさをここまで見事に表現した文章に僕は遭遇したことがない。全ての芸術は、夕焼けだなんて…
僕は世の中のあらゆる景色の中で、夕暮れ、夕間暮れの空ほど美しいものはないと考えている。毎日見られるものなら、見ていたいし飽きるということが全くない。その魅力というのは、一体どこにあるのか。
三島の文章にはその理由が全て散りばめられている。
・色彩の乱費。ことに紫のような色を自然で見ることが少ない
・美の基準であるシンメトリーを全く持っていないのに美しい
・大きな天空の普遍性と関わりあい、もっとも内面的なものが色めいて露わになる外面性とむすびつくものが夕焼けである
・昼間に抱いた小さな理論も天空の花々しい感情の放恣に巻き込まれてしまうと、人々はあらゆる体系のその無効性を悟ってしまうものである
この小説の一節には、登場人物の台詞を借りて夕焼けの持つ魅力をすべて表現し尽くしてしまっているといっても過言ではないでしょう。この文章を見るといよいよ夕暮れの時間には、正々堂々と空を見上げる正当性を与えられた気持ちにもなるものです。