Homare's Diary

組織人事コンサルタントの徒然日記です

走る目的

本当に若い時期を別にすれば、人生にはどうしても優先順位というものが必要になってくる。時間とエネルギーをどのように振り分けていくかという順番作りだ。ある年齢までに、そのようなシステムを自分の中にきっちりこしらえておかないと、人生は焦点を欠いた、めりはりのないものになってしまう。

そのようにして走るという行為が、三度の食事や、睡眠や、家事や、仕事と同じように生活サイクルの中に組み込まれていった。走るのはごく当たり前の習慣になり、気恥ずかしさのようなものも薄れていった。スポーツ専門店に行って、目的にあったしっかりしたシューズと、走りやすいウェアを買ってきた。

村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』


先日、僕らの会社にやって来たニューフェース。家の中でプロポーションを維持するために自重のトレーニングはするものの、あんまり運動はしないそうです。したとして、ボルダリングなどのゲーム性があるものが好み。もちろん、ランニングなんてしないそうです。彼が僕に聞いてきました。

『走るって何が楽しいんですか…』

楽しいからするという部類じゃないんですよね。朝起きたら歯を磨く。一月に一回は髪を切る。完全な習慣です。そこに細かい思想はないのです。

後付けで理屈を言えば、ランニングは肉体的、精神的パフォーマンスのしきい値を下げないようにするため。それにより、仕事における思考の持続力も上がるし、プライベートも活動的に様々なことに取り組める。

徹夜して飲んだり、仕事をしたり、好きなものを思う存分食べたり…そんなことをしていると、若さは浪費されてあっという間に無くなる。若さを失った後に残るのは焦点を喪いメリハリのなくなった人生。

思い切り全力で走ることもできない。体の本来の輪郭もなくなる。体を気にして好きなものも食べられない。仕事で根を詰め高度なアウトプットを出す思考のキレもなくなる。

そう。楽しいからやるというのではない。人生という長いレースをコントラストのある刺激的なものにするために習慣として走るのだろうなあ。