祖父が亡くなったのは、戦時中だった昭和20年。母は小学校5年生だった。三人姉妹の二番目。大黒柱を失った一家は厳しい環境に置かれた。
一家は近隣に住む親戚の世話になりつつ、祖母は何とか勤め口を得ることになった。だが生活は決して楽なものではなかった。
祖母と僅かなものを隣町に売って帰る夜の道。大八車を押すときに見えた月明かりを時々思い出すという。不安と惨めさが折り混ざったようなそんな感情だったのだと思う。
貧しい家庭環境だったが、母は学業が非常に優れていた。特に数学が得意だったのだという。(僕は現代文でそれは祖母譲りらしい)だが経済状況からしても高校に進むことは許される状態ではなかった。
見かねた担任が中学で終えるのは惜しい…と、祖母に嘆願。母は栃木県下でも名門の栃木女子高等学校に進学することになった。姉妹で高校に進んだのは母だけだった。
高校を卒業し就職をする上でも母子家庭はハンデだった。父親がいない家庭からは採用できない…日立製作所からはそう言われたのだという。そんな中で母を採用したのが東京電力だった。
50人の採用。女性の採用は5人。3人は役員の縁故。筆記試験がトップの成績だったのだという。母は、学問で厳しい環境から抜け出すことができたのだ。
”何もしないで高校に行けるような人に私は負けないんだ” 吉永小百合さんのデビュー作「キューポラのある街」の印象的な台詞。吉永小百合さん演じるジュンは、父親が勤めていた鋳物工場を解雇され、貧しい家計を支えながら高校進学を志している。
母の学生時代は、「キューポラのある街」と状況がかなりダブる。映画が公開されたのは1962年。当時の日本は貧しい家庭が多かった。
時は流れ、大学進学も当たり前の時代。学ぶことで機会を掴んだ母の学びのタスキは受け継がれていくのだろうか。