目黒から青山に向かう道すがら、天現寺交差点の手前で右舷から外を見やった息子が声を上げた。懐かしい制服に身を包んだ小学生たちが門をくぐっていく。今日は彼の母校の同窓会なのだった。
「案内来てたよね…」
『うん、でも一回もいったことないよ』
「M先生は来てるだろ、会ってみたいって思うだろ…」
『まあね、でもOBがいくと手伝わされるし、面倒だし』
「社会人になって10年ぐらいして、それぞれの道を歩み始めるようになったら同窓会って結構味わい深いもんだぜ。お父さんも20代までは同窓会なんて誘われても行かなかった」
『そうなんだ』
「今もみんな同じ大学だし、わざわざ同窓会で会う有り難みってないだろ」
『まあね』
「それに当時の思い出に浸りたいとも思わない…」
『うん』
「お父さんも高校時代は落第生だったし、華やかな思い出もないし、自分が嫌いだったから、その頃の自分に引き戻す同窓会なんて、まず行きたいとも思わなかった」
『分かる。僕も中学時代はいじめられたりしてたし』
「好きでもない当時のあだ名で呼ばれて、わざわざいやな想い出をフラッシュバックさせる意味はないよ。むしろ、そういう過去を遠くに置き去っていきたい」
『そうだよね』
「うちに幼稚なヤツもまともになる。そして、案外と社会人になると専門分野が同じ人間としか会わないようになる。小学校、中学校の同級生というのは専門が違う。近すぎて見えなかった一面も見えてくる。それには、時間が必要だけどな…」
『でも、ちょっとわかるよ。大学になってから、小学生の時の友達と話したら全然違う感覚だった』
何の憂いも無かった小学校時代。彼はいつも楽しそうだった。状況が一変したのは、中学・高校。古臭い教育方針、狭量で小賢しいクラスメート。彼が学校嫌いになるのに時間はかからなかった。コントラストがありすぎた。
困難だと思われていた大学入学。ようやく自分らしさを取り戻しつつある。まだ、自分の状況を冷静に振り返るには時間が少ない。
世の中には、時間を経ないと解らないことがある。その一つが、二十歳までに出会った友人・知人の意味だったりする。特に彼のように子供らしい時代を6年もともに過ごした人であれば。
そう、自分の周りにいる人は、一見違うようで自分自身の中に持っているモノを持っているということに。