学校が終わりともに遊ぶ相手がいないとき、暇さえあれば家のブロック塀にボールを投げ、跳ね返るボールを受ける…いわゆる壁ぶつけを何時間もよくしていた。リトルリーグにいたわけでも何でもない。投げるという動作、強い球を投げると手応えのあるボールが自分に跳ね返ってくる…そのささやかな成果がシンプルな動作にそこまで興じさせる力があったのだと思う。
中学の途中から野球を始めた。ゲームも確かに愉しいが壁を相手に投げるしか無かった人間においては、練習でキャッチボールの相手がいる、そのことが無上に嬉しかったのを覚えている。野球は、それ以来上手くもなかったけど大学まで部活で続けた。
少年野球のコーチの時期も過ぎ去りグラブを持つ機会も最近はないけど、世の中はキャッチボールをする機会に溢れている。感情、意思というボールのキャッチボールだ。それは、必ずしも言葉に込めなくたっていい。目線が交わるだけでもキャッチボールは十分成立する。
問題は、自分の投げたボールが返ってこない状態。もしくは、まともに自分に帰ってこないケースだ。LINEの既読、未読なんて典型。
とはいえ、キャッチボールは日常においては思うようにいかないのが常。そうすると人は、単純にキャッチボールが成立する世界に逃げていってしまう。ゲームの世界も夜の歓楽の世界もキャッチボールが現実世界で十分できない人たちの代償行為の場だと捉えることもできる。
僕においては小さい頃と同じで。こういう場で文章を綴るというのは、家の前の壁と同じ役割を果たしているのかもしれない。