『うまい紅茶が飲める店があるんだ。行かないか？』
大学一年の6月下旬。僕は、前期試験勉強のためにO君の浪人時代からの行きつけの場所だという赤坂図書館に来ていた。乃木坂から程なくのところにあるこの公立図書館は、場所柄もあってか人気もまばら。試験勉強をするにはうってつけの場所だった。
一通りの勉強を終えた17時頃、僕はO君に連れられて喫茶店のドアをくぐった。落ち着いた瀟洒な雰囲気に満ちた店内。僕は、言われるがままに彼の勧める紅茶を頼んだ。1000円近くもする紅茶などそれまでは飲んだこともない。
『まずは、ミルクを入れないで飲んでみてくれ。それから、少しミルクを入れてみてくれ』
一口飲んでみた。それは僕がこれまで飲んだ紅茶とは比べ物にならない美味しさだった。そして、ミルクを入れてみたのだが、ミルクを入れた味も格別のものだった。添えられたミルクもただのミルクではないようだった。
『どうだ、美味いだろう』
僕が大きく首を振ると、O君は満足そうに頷いた。
1年の時に部活をともにし、試験勉強をともにしたO君も、僕が異なる部活に転じ、彼も部活をやめたこともあり、2年以降は共に勉強をする機会を持つことはなく、僕もその喫茶店を訪れる機会はなかった。正確に言うと、赤坂図書館にはその後何度か行き、その喫茶店を訪れようと思ったのだが、記憶をたどって店にたどり着くことがどうしても出来なかったのだ。
その後、赤坂図書館は取り壊され、高層マンションの一角に移転した。当時の記憶を辿ろうにもますます、当時とは様子が変わっていく乃木坂。いつしか、その喫茶店の存在も忘れてしまった。
今度新しく移転したオフィスは、乃木坂から程なくのところにある。うちに、あの時の喫茶店ってまだあるのかしら・・とふと気になってきた。しかし、もう30年も前のこと。残っている可能性なんて・・限りなく低そう。
乃木坂の喫茶店といえば、カフェグレコが有名、だがこのお店も5年前に閉店している。しかし、調べてみると乃木坂は雰囲気の良さそうな喫茶店がたくさんあるもの。例えば、「カフェドロペ」なんてとっても素敵な喫茶店。こういう喫茶店がまだ残っているのが乃木坂。僕の好きな国立新美術館も近くにあるし。
ちょっとしたことですが、心理的にはちょっぴり贅沢な気分になれる昨今。
『お前が、結婚するときには俺を必ず呼んでくれよな』O君の依頼を僕は守れなかったことを思い出した。
