Homare's Diary

組織人事コンサルタントの徒然日記です

生きる大義

「自分の為だけに生きて死ぬほど人は強くない。理想なり何かの為というものが必要になる。それが大義というもの」 -三島由紀夫

自分だけの為だけに生きていると、卑しさ、生の倦怠感というものが必ず訪れる。いくら上質な暮らしをし、旅の日々に明け暮れたところで、それは生の倦怠感を紛らわせる麻酔にしかならない。

きっとそれは究極の問いである、「自分は何のために生きているのか」という事に対する答えから逃避しているという事が当人にも薄々分かっているからだろう。

国という大義が無くなってしまい、戦後において”大義”は「企業」に置き換えられた。寿命が60歳代で定年が55歳の時代であれば、会社のために身を捧げる生き方であったとしても、報いもそれなりにあったし幸せだったのだろう。

今や寿命は80歳に延び、企業においては大量に抱えた中高年社員の存在は悩みの種。終身で雇用される可能性も低くなっている。仮に凌げたところで定年という合法的な解雇通知を60歳で下される以上、人生の大義を会社に求めるには無理がある。

ドラマチックな死というものが出来ないのが現代なのだ、と三島さんはいう。それにしても、大義を見出すのがとても難しい時代。自分のために生きることに目を向けさせ、消費を煽るメディア。独身やDINKSを選ぶ人も多い。でも、そのような打算の生き方には義も幸も無い。

いつの時代も変わらないシンプルな大義は、「子供の生きる未来のために生きる」「与えられた才を人のために役立てる」という事。また、国とか企業といったはっきりと目に見える大きな存在が無い以上は、目には見えない存在や繋がりの中で生きるという感覚が殊更に大事になるのだろう。