Homare's Diary

組織人事コンサルタントの徒然日記です

眼と歯が悪いとお金がかかる

健康診断での視力測定でのこと。

 


一回目を測定したら右0.5 左0.2だった。そんなはずは…『もう一回やりますか…』

 


おおやりますとも。当たり前でしょ。

気合いを入れて、眼瞼に力を込めていざ…

左、右、右、下… サクサク行くね。

 


『右1.2、左1.0です。お疲れ様でした…』

うむむ、今度は良すぎるのだが。さっきは迷ったやつをことごとく外したが、今回はことごとく的中。だいたい僕は0.9の0.7というところなのだ。免許では裸眼オーケーだけど、凄まじく良いというわけでもない。

 


受験勉強前は両面1.5だったが、終わったら0.3位に落ち込んで、その後は大分戻したけど1.0になることはなかった。だいぶ怪しいがまあいいだろう。

 


先日、歯のクリーニングを近くの新しい歯医者でしてもらった。最初にレントゲンや写真を撮り、歯科医師いうには、

 


『この年齢で歯周病もなくとても状態がいいです。歯磨きも頑張っている。これなら、一生自分の歯で噛むことできますよ』

 


目と歯は悪いとお金がかかる。幸いに歯も悪くないし、目も老眼などもなく(スマホは極小フォントだ)。親に感謝をしないとね。

使っても減らないもの

使っても減らないもの、それは頭。むしろ使えば増えていく。一方で使わないと減っていく。


何かの映画で語られていた言葉。様々な世代のメンバー仕事をしているとその事実を目の当たりにすることが多い。


30代で管理職に上がり、部下や外部コンサルが作った資料に対してレビューしかしてこなかった人間は、40代ともなると頭も働かないし、手も全く動かなくなっている。人にさせることだけしていた弊害だ。


コンサルティングにおいて、人に口で指示だけをして手が動かない人間は要らない。過去の経験領域の専門性だけを裁こうとする人材も不要だ。そういう人に限ってプロジェクトがうまくいかない責任を部下の責任にするものなのだが。頭が使えていないので適切なディレクションが行えていないし、いざとなれば自分で巻き取る力もないだけなのだ。


その状態を認識できたところで、変えていくには相応の覚悟とエネルギーがいる。うまくやり抜けて成功しようとか覚悟が足らない証拠だし、酒と飽食で緩んだ体は厳しい仕事をさばくに必要なエネルギーを生み出してはくれない。


働かない中高年なんて十把一絡げにされるのはたまったもんじゃない。あくまでも緩い仕事と生活の習慣を10年近く重ねた果てのパフォーマンスであるだけ。結局は個人によるんだよね。


でも、退化してしまった人は端で見ていて哀れだよね。仕事ができない人だって本人のプライドだって保てないでしょう。権力というものでそういう哀れな人がプロテクトされた組織で働くことは、人生の無駄だと思う。


人は何歳になったとしても成長できるし、そこを諦めた人といることは自分にいい影響をもたらさないからね。

カウンターパンチ

少々、自分の体力に過信をしていたところがあったのかもしれません。8月の中旬に喉風邪をひき、久しぶりの発熱で3日程度は力がこもらない状態を過ごしつつも、医者で抗生物質をもらい盆には回復。勝浦で久しぶりの外泊を過ごし、54回目の誕生日を迎えたわけです。

 


いつものように週末はルーティンのランニング。暑さと病み上がりでいつもより5キロ短く済まるも、まあいつものようにリカバリーしていくだろうと。二日後治ったはずの喉の奥にどうも痛みがある。気分もスッキリしない。

 


どうも体がふわふわした感じなので熱を測ると、38度台。市販の風邪薬を飲みつつ、シャッキリしない体で何時もより変に汗をいっぱいかきつつ、それでも仕事をこなすも、今度は完全に声が潰れて出なくなってしまいました。こんなことは結婚してから初めてのこと。

 


熱は下がるもさすがに市販薬ではダメだと医師を再び訪問。しばらくして声は出るようになったのですが、今度はひどい咳に悩まされて夜も眠れない。再度、医師と話すと『二回目はほぼ自力で直してしまったようですけど、コロナではなかったかと』

 


喉の痛みや発熱。長引くひどい咳。ほぼそうだったのでしょう。しかし、おかげで8月はなんだかぼおっとする時間が多く、仕事にも生活にも精力を注ぐ余力を持てないままあっという間に終わってしまいました。

 


五類に変更になったとはいえ、マスクを外して生活をしていたせいもあるし、体力が十分快復していないときにランニングをしたこともあり。健康慣れしすぎてましたね。やっぱり、有限性があるって思わないとね。

イングリッシュガーデン

そこに計算やら合理性やらの物差しがあったのであれば、かくもいろいろと寄り道をすることはなかったように思います。一方で不器用な人間ですから、効率のよい生き方や選択など、分かっていてもできようもなく。

 


その時々の出逢い想いの中で選択し、積み上がった経験。偶然のなせるものも、感情的必然性もない交ぜとなった結果論。果たしてそれは、他の誰にもなぞることができないようなキャリアになったことは確か。線として、面としてつながると、スコープレンズからは見えないものが見えてくるようになりました。

 


求められる役割は、中長期的、俯瞰的な視座で画を描くこと。潜在課題を見つけ、そこに解決の道筋をつけること。

 


遠目で眼を凝らし、見えたことを画に落としていけば、それがビジョンになる。見えたビジョンは不思議と実現する。時が満ちたからと思うのですが、性格的には虫の眼よりも鳥の眼に得手もあり、アイデンティティを体現する仕事がようやくできるようになった。

 


人の成長のスピードは様々なわけですが、50歳でキャリアピークを迎え、55歳で山を下り、60代は余生を過ごす…というゲームに参加しなくてよかった。寄り道、スロウスターターな人間においては、間違いなく不利。天命を知ることもできない。

 


広野をほじくり返し種をまくも、一所にチューリップならチューリップ、芝なら芝と決めて栽培し続けた人にかなうはずもなく。いつまでも中途半端だった広野にようやく芽吹いてきた様々な植物たち。

 


イングリッシュガーデンであるなら、種を見つける旅も無駄ではなかったということ。今後も時間をかけて庭を育てていけばいい。庭には畑と違い、秋の収穫そして冬の休耕という終わりがないですから。

No such luck

先週の土曜か日曜日あたりに罹患したのかもしれません。火曜日から喉が痛くなり。大抵はそこで抗生物質で治まるところが木、金は珍しく39度近い発熱でした。

 


こんなにしっかり熱がでたのは社会人になってからでは記憶になく。家族からは歳をとったからだ…やらコロナ感染だよ…などと言われる始末。今日は、喉の痛みも熱も引いたのでやれやれというところ。

 


こういう病気は熱が上がり出す前の、熟睡がしたくてもできない何とも言えない違和感に包まれた時こそがいやなもので。実際に熱がそれなりにあったとしても、体温計ほどの辛さは感じませんでした。とはいえ、少ない僕の体験からすると38.5を超えてくると、悪寒や倦怠感などが強かったはず。ですが熱中症になりそうな気温と湿度の高いコンディションで走っているときに較べたら、それははるかにマシなのです。

 


かつて39度の熱を出したときは、全身を管に繫がれた状態だった治療方法のない病に臥せっていたとき。胸部に挿管したカテーテルに身体がアレルギー反応を示し、高熱と悪寒に苛まれていました。

 


少々厳しいコンディションであったとしても、ベッドに縛り付けられる耐え難い日々を少しでも抑制できるのであれば、全く大したことじゃあない。

 


人は肉体寿命を終える前に終わるものがあります。健康寿命というものです。男性の平均寿命が約81歳で健康寿命は73歳。女性の平均寿命が87歳で健康寿命が75歳。男性であれば終末期の9年、女性であれば12年は体に疾患を持ち、常に違和感や痛みを抱えながら生きていくことになる。でも、そのことの本当の姿を理解できている人がどれだけいるのでしょうね。

 


そう。その辛さたるやたかだが暑い日に2時間走るような一過性のものじゃない。それが分かっていたなら、多くの人は日々の行動を変えていくでしょうね。

佃・月島の祭り

祭りといえば、縁日の屋台や踊りを連想する人も多いだろうが、僕にとっての祭りは神輿だったりする。N嬢に住吉神社の祭りの報を聞いたときも、思い浮かべたのは神輿だった。妻と娘と一緒に出たのだが、縁日にいくんじゃないのという始末。神輿を見に行くんだって…

 


佃・月島で催される住吉神社の例大祭は、江戸時代からの歴史を汲む由緒ある神輿が町内を巡るお祭り。住吉神社は、大阪住吉区にある住吉大社が本山で、江戸の遷都の際に大阪住吉の住人が家康から江戸に住む許しを得た際に与えられたのが佃だったところが発祥。

 


住吉大社に祭られている神様は、海の神様で14代天皇の皇后である新功様が祭られている。彼女は朝鮮新羅遠征を行った勇敢なジャンヌ・ダルクみたいな人で、海で仕事を行う漁業、海運業の人たちにおいてはとても大切な存在。

 


佃には当初漁師の人たちが拠点を据えたわけだけど、200年後に佃に日本の造船業の雄である石川島重工業ができたのは、ある意味必然だったのかもしれない。たまたまかもしれないけど、義父は海運業に関わっており、佃大橋が架かる前の石川島に材料を運んでいたそうだ。

 


祭りは僕が思い浮かべるよりも遥かに勇壮で活気があり、街中が神輿とともに一体となるお祭りだった。神輿は街を掃き清める意味があるので、主な道をくまなく練り歩いていく。

 


月島で生まれ育ったN嬢においては、この祭りは生まれた町とともにあり、神輿も昔から担いでいたのだとか。とはいえ、この神輿担ぎたるや重さも歩く距離も半端がないもので、1ターム2時間ほどの行程を午前と午後で2セット2日間こなすというタフなもの。若い担ぎ手や人手が多くいないととても成り立つものじゃあない。

 


それこそ石川島播磨重工が工場を撤退し、人口が減少し高齢化していた90年代辺りは、大変だったであろうと想像できる。

 


僕は運がいいことに彼女が担ぐ月島三の部の神輿を見ることができた。神輿の先頭で四方からの水掛けに笑顔で応える彼女の様子は、月島の看板娘たる明るさ。仕事の中でも見せていた底抜けの活きの良さは、まさにこの街で育まれたもの。

 


それにしても、たまたまお昼をとった洋食屋さんで、このお祭りは何も出ていなくて御神輿だけなのね…と言っているおばさんがいたのですが。なに言ってやがんだい…と。

 


このお祭りは、日本に来ている外国の方にこそ見てほしい。歴史の繋がりの中にある東京が感じられますから。

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LPアルバムのフォトグラフ

推し活という言葉が定着する前から、アイドルの追っかけみたいなものは綿々と存在するわけです。恋人とまでいかなくても、人は恋する存在を手にすることで毎日を輝かしく生きることができるわけで。そういう対象がいるって、大事なことよね。

 


ティーンエイジの頃は、そんなもんにいくら力を注いだところでどうにでもなるわけでもない。実に無意味で馬鹿馬鹿しい。それどころか、そんなものに熱中する男は、女性の眼から見たら気色悪いだろう…などと思っていたりもしたので贔屓のアイドルなどというものはいなかったです。

 


歌は好きなので、アイドルの歌は幅広く一通り聴いていました。今聞いても、80年代の女性アイドルに提供された楽曲は素敵なものが多く。好んで聴いていた理由はあったわけだと思うわけです。松田聖子さんなんて無敵ですよね。

 


先日、神保町の古書街を妻と歩いていたら、LPアルバムを売っているところがあり、レンタルレコードで借りてカセットに落として聴いていた懐かしいアルバムたちが並んでいたので、じーと眺めていたわけです。(色々な曲が聴きたかったので、高いアルバムは当時買えなかった)

 


松田聖子、石野真子、松本伊代、斉藤由貴…

 


目にとまったのは斉藤由貴さんの『ガラスの鼓動』。曲もいいのですが、インナーとジャケット写真が素晴らしく、当時はこんなに綺麗な人がいるものか…と衝撃だったことを思い出しました。むろん、曲は今でも聴きますが。アルバムに折り込まれた可愛らしいポーズを決めた写真なんて見るの久し振り。やっぱ、写真が大きいといいなあ…

 


レコード聞けなくても400円でこの写真を手にいれるのは結構いい買い物だな…と思いつつ。ウチの妻は、斉藤由貴さんが数少ない好きなアイドルであることを知っており、後でやっかむので学生時代の信条に基づき買うのはやめることにしました。

 


娘さんも雰囲気は遺していますが、このレベルの雰囲気は常人に到達するのは無理でしょう。そう、100カラットダイヤモンドなんて、そうそうは見つかるわけがないのです。

 


これだけの容姿だったら、時間があるときは鏡の自分をずっと見ている…という本人のコメントも納得な訳ですね。

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