Homare's Diary

組織人事コンサルタントの徒然日記です

終わりを描くことから始める

自分の価値観や持ち味、不得手というものがハッキリ見えている人というのは、絶対観に裏打ちされた夢や使命を描くことができる。

 


見えていない人ほど、ポジションや報酬といった相対観のもとでしか夢を描けない。一流大学に入る、一流企業に入る、大手取引先相手に金額の大きい案件を最上とみなす、そして上級管理職を目指す、彼らが打ち出すビジョンはNo.1とかトップを目指せ…そこにしか意味づけをできないのか…

 


コンサルティングファームもそういう人多いよね。

 


コンサルティングなんて本来は専門家集団であり、自分が使命とするテーマの専門性を高めていくキャリアが本質。一方でそれでは経営が成立しないから上位ポジションに就くためには案件獲得金額が目標ターゲットに組み込まれている。

 


金額をこなさないと上を狙えないから、自分に合ったテーマではなくても案件をとりにいく。終いには、金額が稼げそうかどうかだけが関心事になっていく。そして、同じネタで再生産ができる方が効率がいいから、常に一定の落とし所となるハメ技で相手に対峙していくようになる。

 


でもそうして手に入れたポジションもいつか返納しなくちゃいけない。偉そうな名刺もそれまで。その時に残るものがその人の職業人生といえるのか?

 


時効で無くなるものに振り回される人生って何だろう。でも、それが会社という中におけるゲームルールなのだよね。本当に自分の価値、持ち味に基づく仕事であれば、会社人生の終わりが職業人生の終わりにはならない。ライフワークだ。

 


7つの習慣の第二の習慣。終わりを思い描くことから始めるというのは、相対観のパラダイムから抜け出し、使命に基づく生き方をするための考え方だといってもいいよね。

首は冷やすにほどがある

夏場のランニングは体の熱が長く残りがち。日中に長距離を走るのは持久力を上げる以前に熱中症で体を痛めてしまうので夜に走るのだけど、それでも熱が体にこもり寝つきが悪くなる。


熱を下げて寝付きをしやすくするために、アイスノンを枕にして寝ているのですが。先々週のからどうも右腕が重だるい。これは在宅勤務の弊害で日中のエアコンや体を動かす機会が減っているからかなあ・・と思いつつ、症状は悪化していく一方。重い鞄も下げてないのに・・。先週は耐えかねて鍼を打ってもらったのですが、劇的な改善は見込めず。


でもって、腕と肩にシップを張っていると「貴方も歳を取ったのかしらねえ・・」「そうだよ、お父さんも歳だよ・・」などと散々な言われよう。まあ「らしくない」と言いたいのだと思うのですが僕としても大変に不本意であるわけです。


検証すると、肩の可動域は変わっておらず腕は上がるので40,50肩ではない、重だるいものの腕の凝りが原因というわけでもない。軽い痺れがあるが、頚椎ヘルニアというわけでもない(2年前に似たような症状でレントゲンを撮ってもらったが、狭窄などは起きていなかった)。でも、神経が圧迫されていることによって生じている現象のように思える。

一つの仮説。腕のだるさは首の付け根の凝りとそれに伴う神経の圧迫が影響を及ぼしているのではないか。原因は、アイスノンで一晩中首を冷やしていたせいではないか・・


果たして温感シップを首の下に貼っていたら、腕の重だるさは解消しました。体って繋がっているんだね。この部位は、風門という体の冷えを解消するツボに近い所だしね。

社長よりプロ職人

コクヨのもとでの買収騒動に揺れたぺんてる。議決権を持つ5割の買収は失敗し、同業のプラスの傘下に入ることになった。この騒動は、ぺんてる創業家三代目の社長がクーデターによって会社から追い出され、復権を図ろうとするものの失敗。自らの持つ株をファンドに売却したことが発端。そのファンドにコクヨが出資することで実効支配を行おうとしたことにある。


要は、コクヨを通じて三代目社長が復権するシナリオに対してぺんてるがNoを突き付けた格好だ。コクヨも老舗のメーカーであり社風も穏やかなもの。それゆえに、元社長の影がない限りは、ぺんてるが激しい拒絶反応を示すことなどないだろう。


このM&Aに合わせてプラスの傘下には、セーラー万年筆も入ることになった。セーラーも日本の三大万年筆メーカーの一角を担う老舗であるものの近年業績は低迷。社長は財務省からノーパンしゃぶしゃぶのスキャンダルで辞任し、天下りをした人物。万年筆のクオリティは素晴らしいのだが、経営者としての資質、センスが全くない人物が経営を担うとどうなるか・・を絵にかいたような状況だった。


セーラー万年筆はプラスの傘下に入り、財務基盤はしっかりしたものになった。ぺんてるとの事業提携もするという。旧態依然とした老舗メーカーをしっかり残していくためにも、プラスの動きに期待をしたいところ。


だがこういったお家騒動が起きると、真っ先に起きるのは優れた人材の流出。


セーラーが誇るペン先職人の長原幸夫さんもセーラー万年筆を去ってしまった。お父様もセーラーの看板職人であり、そのスピリットと技術を受け継いだ長原さん。高級価格帯のペン先はほとんど彼が手掛けていた。辞めた理由は、『定年退職に伴う独立』なのだが、お父様が定年を過ぎても嘱託でセーラーに残り、看板職人として活躍したことを見れば、セーラーは長原さんという至宝を失ってしまったことになる。


長原さんは独立し、メーカーに縛られないペン先調整のプロとしての活躍を選んだ。それはそれでよいことなのだと思う。とはいえ、歴史ある名門企業の看板といっても良い方であり、嘱託社員として多少高く処遇しても全く惜しくはない人材だったと思う。無能な社長なんかよりも厚遇で構わないくらい。


こういう職人こそが、定年という枠に縛られず会社で働き続けられる仕組みが理想なんだろう。そして、そういうプロに選ばれる会社でないとね。


長原さんに左利き用に調整してもらったセーラー万年筆は日々愛用しているわけなのですが、今度はパイロット万年筆の調整をお願いしてみようかしら・・

『見えない人』はお金だけ

儲かるか儲からないか、売上が大きいか小さいか。事業に取り組む意思決定における大事な要素だ。一方で未来の可能性に繋がるか、否かというのが真に重要な要素。

 


後者はありきたりにいえば『ビジョン』ということだが、そこには未来において世の中や顧客が抱える『不』を解消させているという大義やその具現化、価値提供に向けて不屈の取り組みをする強い意志が求められる。紙っぺらに書いて額縁に掲げるビジョンなど何の値打ちもない。

 


真のビジョンを持つ人か否かは、不確実性の混じった案件があったときの意思決定にハッキリと現れる。利益率やら計画の確実性やらを根掘り葉掘り聞いてハッキリしないとやらないという人間は、『ビジョン』などからきし持っていない人なのだ。

 


『ビジョン』があれば、何かそこに可能性を感じて賭けてくれる。「やってみなはれ」だ。

 

 

 

ある会社のDNAを幹部に共有させる研修プログラムを作っている。なぜ、情報処理産業界で飛躍的な成長を遂げたのか、異種なる事業統合を80年代に行えたのか…

 


キーワードは、時代の先を見据えたビジョンに基づく意思決定。ハードベンダー系や通信系とはDNAが根本的に違う。

 


母体は今の儲けではなく、未来の相場を見越した商売をしなければ成り立たない。常に先手先手を読むことを叩き込まれている。そして未来を予測し意思決定を下す。他の会社であれば到底否決されたであろう意思決定が喧々諤々ありつつも行われていく。それが世界でも極めてユニークな組織を形成したDNAだったりするわけだ。

 


ワイワイと議論を重ねながら、僕がいつも歯がゆく話のかみ合わない人は、未来が見えない人なんだろうな…と思ったのだった。

隣の芝は自分の芝

女の子は、自分の父親をその時その時でどのような存在として見るのだろう。少なからず、幼少期においては無条件に自分の元に走り寄ってきても、成長とともに距離をおくようになる。

 


そのタイミングは、小学校高学年、中学のあたり。距離を置くだけならいいが、洗濯物を一緒にするな…というレベルになるとさすがに心がめげる。

 


僕の娘の場合は、中学生だった。お洒落に目覚めた女友達の世界、憧れる男性はジャニーズや羽生結弦となると、父親はがさつさ、醜さしか目につかない。

 


彼女の見方が変わったのは、クラスメートたちがきっかけだった。僕は、小学生の頃から授業参観や運動会などの学校行事には必ず参加をするようにしていた。彼女の通うS女子学院にも足繁く通った。当然、クラスメートたちは僕のことをよく知っている。『ななみちゃんのお父さん』だと。

 


S女子学院の父親たちは、社会的地位も経済力もあり年齢と恰幅を増した人たちが多かった。そんな中で年齢的にも一回り近く下の僕。

 


クラスメート達は、事あるたびに彼女に言ってきたのだそうだ。『ななみちゃんは、羨ましい。お父さん格好良くて若くて。私もあんなお父さんがよかった…』(成人式で久しぶりに同じことを言われたらしい)

 


それ以来は彼女から誘われて二人で映画を見に行ったり、カフェに行ったり、食事や買い物にふつうにいくようになった。映画、音楽、文学などは志向が似ているので、友達より気が楽らしい。これも彼女のクラスメートたちのお陰なんだろうな…

 


隣の芝は青く見える。青く見える隣を羨んでも自分が不幸になるだけ。でも、青く見る他人の評は時に自分が見落としていたことに気がつかせてくれることがあるのかもしれないね。

働く上での大義

「自分の為だけに生きて死ぬほど人は強くない。理想なり何かの為というものが必要になる。それが大義というもの」 -三島由紀夫

 

自分だけの為だけに生きていると、卑しさ、生の倦怠感というものが必ず訪れる。いくら上質な暮らしをし、旅の日々に明け暮れたところで、それは生の倦怠感を紛らわせる麻酔にしかならない。

 

きっとそれは究極の問いである、「自分は何のために生きているのか」という事に対する答えから逃避しているという事が当人にも薄々分かっているからだろう。

 

国という大義が無くなってしまい、戦後において”大義”は「企業」に置き換えられた。寿命が60歳代で定年が55歳の時代であれば、会社のために身を捧げる生き方であったとしても、報いもそれなりにあったし幸せだったのだろう。

今や寿命は80歳に延び、企業においては大量に抱えた中高年社員の存在は悩みの種。終身で雇用される可能性も低くなっている。仮に凌げたところで定年という合法的な解雇通知を60歳で下される以上、人生の大義を会社に求めるには無理がある。

 

ドラマチックな死というものが出来ないのが現代なのだ、と三島さんはいう。それにしても、大義を見出すのがとても難しい時代。自分のために生きることに目を向けさせ、消費を煽るメディア。独身やDINKSを選ぶ人も多い。でも、そのような打算の生き方には義も幸も無い。

いつの時代も変わらないシンプルな大義は、「子供の生きる未来のために生きる」「与えられた才を人のために役立てる」という事。また、国とか企業といったはっきりと目に見える大きな存在が無い以上は、目には見えない存在や繋がりの中で生きるという感覚が殊更に大事になるのだろう。

CrimsonのPrisoner

何かの行為に伴い人から勝ち取ったものがPrize、戦争により獲た捕虜を収用するのがPrison。

 


深紅の色を得るためにその昔はカイガラムシ(Kermes vermilio)を捕獲して抽出したからCrimson。

 


深紅の色は、人の心を魅了する蠱惑的な力がある。恋愛、情熱の色といってもいい。そして、この魔力に囚われた人は、ある意味で恋の奴隷となった存在(Prisoner)といってもいいのかもしれない。

 


そうした意味で、CrimsonとPrisonという2つの言葉は繋がっているのだと思う。

 


そんなことを思った理由は、80,90年代のJ-popsにヘヴィーに傾倒している二十の娘とともに、中森明菜の『Crimson』を改めて何度も聞き直しているからなんですが。

 


収録曲のOH NO! OH YES!や駅などは、まさしく恋の奴隷となった深紅の女性の世界観だな…と。

 


このアルバムが発売された当時の僕は、この世界観というものにあまり傾倒ができなかった。解釈がまるでできなかった。このアルバムを出した当時の中森明菜も二十。女性の精神世界が男性のそれとは大きく隔たりがあるということの一つなのでしょうか。

 


少なくとも、彼女がこの年齢でこの歌を情感込めて歌い上げられる理由は、彼女が不自由な恋愛の経験を積んでいるから。そして、相手を思い詰めるエネルギーが人並み外れて高いからだろうと。そして、その分大きな孤独の闇を抱えている人だからだと思います。

 

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