Homare's Diary

組織人事コンサルタントの徒然日記です

独白と対話

人は共通の思い出について、一時間ほどは、熱狂的に話し合うことができる。しかしそれは会話ではない。孤立していた懐旧の情が、自分を頒つことのできる相手を見出して、長い間夢見ていた独白をはじめるのだ。おのがじし独白が続けられて、しばらくすると、急に今の自分たちは語り合うべき何ものも持たぬことに気づく。二人は橋を絶たれた断崖の両岸にいるのである。(三島由紀夫 豊饒の海 奔馬


昔の友人に会った時に、何か満たされない思いをして別れる時というのがあります。先の表現はその理由を端的に言い表しています。それは、胸の内にしまっておいた懐旧の情を開示する相手を見つけ、熱狂的に独白をしただけで対話が成立しない。そういう相手だったことが明白になるからなのでしょう。


僕が一番苦手なのは、「独白」を延々とする人との座です。僕なりに結節点を探して会話を紡ごうとするのですが、そういう人に限ってそうした努力はまず徒労に終わることが多い。その人は自分のことにしかしょせん興味がないからです。ですから、「独白」しかしない人とは僕は自分から酒を飲むことなどは決してしません。相手を心地よくするだけで、まずもって時間の無駄だからです。

 

そもそも、独白をしたいのであればこういう形でいくらでも好きに独白できるわけですから、わざわざ生身の相手に時間を拘束してまでする必要は僕には全くないのです。


やっぱり、愉しい場というのは対話を心がける相手といるときです。そして、それは年齢は関係ないように思います。