「ビリギャル」は、一定期間努力をすることで、私学最高峰の「入学歴」を手に出来ることを証明したものの、日本における教育の惨状をある意味呈している物語だ・・と佐藤優さんは指摘している。
確かに、彼女は慶応大学に入学はしたものの、受験勉強においては、英語と小論文以外の科目は完全に捨てている。学校の授業でも、受験に関係のない科目はスルーしている。そうした教養が著しく欠けた状態で入学した学生が、卒業までにどれだけの学問を吸収できたか相当に懸念が残る・・と。
また、彼女を教えた予備校の講師も教育者として優秀なのではなく、クライアントを見立て要望に応えるに長けていただけとする。なお、「ビリギャル」の成立要素としては
①私立中学受験の経験があり、机に向かって集中できる力がある。また、人に挨拶をしてコミュニケーションできる力を持っている
②特定科目で受験可能な私学を目指せる経済力が親にあること
③受験に関係のない科目については、親が学校に交渉してまで負荷を軽減させる強引さがある
上記の一つでも欠ければ実現が不可能だろうと指摘している。
ダメ人間の烙印を押された人間が、努力して慶応に入るのはなかなか痛快。けれども、世界史も現代文もましてや数学など全く解さない学士というのもね・・ただでさえ、私立は科目少ないのにね。
ここでは、それらが社会ですぐに役に立つとか立たないということではなく、変則的なテクニックを使って、大学というブランドをとりあえず手にする。おおよそ本質を欠いた物語に、何の憂いもなくこぞって共感してしまう危うさです。
とはいえ、受験勉強によって疲弊し、生涯において学ぶ意欲を失くしてしまったら、何の意味もないことですけど。
関係ないけど、とても好きだけど離婚したって彼女の日本語は意味がわかりませんね。