Homare's Diary

組織人事コンサルタントの徒然日記です

袖触れた縁の意味

自分に自信がないと、内面を他人にさらすのはとても難しい。


ティーンエイジの頃の自信の源泉は、大きく3つ。恋愛、部活、勉学。どれかに下支えされていると、ある程度自信をもって過ごすことが出来る。どの立脚点も覚束ないと肯定感は低く、自分を下手にさらすなんてできやしない。そもそも、自分ですら自己を規定できていないし、それを表現する言葉さえもっていない。


こうした中で、周囲から識別されている自分は、内面の自分と大きくかい離することも多い。さらには見た目アイコン的なニックネームを付けられた日には、憂鬱はますます深くなるわけで。そうして、理解されない周囲との断絶を感じ、孤独な物思いにふけるという循環。まあ、それが思春期というものなんでしょう。

 

これだけ生きて経験を積み重ねてくると、相対性の世界から抜け出し、自己を規定する言葉もそれを晒していく上でのベースとなる自信も確立されてきます。そうすると本当の意味で、様々な他人と本音の話が出来るようになる。


未確定な自分を抱え憂鬱だった時代を過ぎ、改めて旧友と話してみる。在学中は、袖も触れなかった人に、自己と符合する部分が多いことであったり、全く違うことをしているのに、同じような哲学を持っていることに気が付いたりする。そうして、世の中を見てきたがゆえに、自分が同じ時を過ごした人が実は意外と稀有な人であるということにも気が付いたりする。


だからそうした友と時間を共有できるのは、人生における小確幸なのかもしれませんね。