Homare's Diary

組織人事コンサルタントの徒然日記です

彼女の面影

金曜日に久しぶりに集まった高校時代の野球仲間。後輩で9回生の市田君、そして同期の大野君、兼松君。話題は、今月末に行われるホームカミングデー。

大野君は、同窓会には全然参加していません。Facebookも使っていません。ですから最近の同期ってどんな感じなのか…って全く知りません。ですので、FBベースですが、彼は、彼女はこんな感じ…と見せると食い入るように見つめているわけです。

ちなみに大野君は相当に老眼が進んでいるので画面を見つめる目が奇異で面白いこと。今回みんなに会ったら、みんな老眼が進んでいるので、正直びっくりしました。

僕はiPhoneのフォント設定は「極小」ですが、全くみんな見えないのだそうで。かなり大きな文字設定だったりします。むむそっかーって感じです。普段年齢を意識することってないけど、こういうときに感じるわね。

話を戻すと。大野君は同級生の記憶が現役の時から止まっていますから、彼女はこんなじゃない…とかまあ言いたい放題言っているわけです。やれやれ。

飲みすぎで痛風になって、ミニマシュマロマンみたいに膨張している君が人のこと言えた柄かい!と僕と兼松君で突っ込みまくりな訳ですが。大野君は、久しぶりにあったら識別はできても大分変わったって思われるでしょうねえ。ww

『あの可愛かったXXはどうなったんだ?』
『あー彼女は昔から色っぽかったねえ』

女子諸君すいません。でも、こういう会話ってよくあるでしょ。わいわい盛り上がってまたね!って。高校の時とは基本は変わってないのですよね。

ジブリヒロインの原点

江口寿史さんが描くポップでキュートでスタイリッシュな女性のイラスト。すごく惹きつけられます。好みのタイプだとかそんなんじゃないんです。昨年は江口寿史さんのイラストレーション展が全国で行われていました。今後どこかでやるのなら行ってみたいものだな…

そんな江口寿史さんのイラストレーションの一つに、リアルな女性を描いたものがあります。女優の芦川いずみさんです。芦川さんは、石原裕次郎さんや小林旭さんなどが活躍した時代の日活映画の看板女優。今見ても可憐で可愛らしく「和製オードリーヘップバーン」とも呼ばれていました。

古い映画が好きな僕も何本か見ていますが、本当にチャーミングです。吉永小百合さんと肩を並べる人ではないでしょうかね。

ちなみに芦川いずみさんのファンは多く。宮崎駿さんの作品に登場するヒロインも芦川いずみさんのイメージが相当に反映されているそうです。

こういう方がもし今も活躍されていたら、アジアを代表する女優になっただろうな…と思うのです。

男の嫉妬の恐ろしさ

銀座のママだった人曰く、「男の嫉妬は女性の100倍怖い」ということだそうです。なぜなら、嫉妬した相手のことを会社や業界にいられないように、社会的な抹殺を図ろうとするから…だそうです。


女性は自分のグループには入れてあげない、というだけで社会的に排除まではしようとしません。他人との関係性や連続性を大切にするように育てられているから。一方の男性は、常に一番になるように育てられているから、その地位を脅かす人間は排除するのです。



嫉妬のタイプはいくつかあります

①自分より仕事ができる
②自分より社会的に注目を受けている
③自分より人気がある
④自分より格好がいい
⑤自分の好きな人に好かれている

その対象は身近な人間であることが多い。特に上司と部下、同僚という関係性で起こるわけです。上司においては、部下の評価権、人事権を持っていますから、生殺与奪は簡単なわけです。

問題となる材料をチクチクと集め、自己の意思決定の正当性を図っていきます。時にそこに客観性を保つための第三者が駆り出されることもあります。その人と利害が一致していれば、強力な援軍となります。これが大きくなったものが俗に言う派閥です。

そして用意周到に嫉妬した相手に社会的なダメージを与える、目の前から葬り去れればそれで良いのです。

嫉妬心は誰でも抱くものですが、その人にとって最も大事にしているもの、例えば好きな異性の好意とか衆目から注目…が脅かされた場合には、その気持ちは執拗なものになります。さらに、その人が気持ちを満たされることがない不幸な状況に置かれていたのであれば、相手を恨む気持ちはすさまじいものになります。

大事なことは、そうした気持ちを抱かれないように、程度のいいバカを演じたり、取り入ったりしておけばよのです。

ですけど、程度の差こそあれそんなのって無駄な労力な訳です。自分は上司の小さなエゴを満たすために生きているわけじゃない。もっと大きなもののために生きているのだと思うのです。

とはいえ、正義を貫くと十字架に架けられるわけです。それによって大きく地位が脅かされたり、仕事を失うという経験をしたこともあります。人の醜さ、恐ろしさというのは過去に幾度となく経験してきました。

その度に思うわけです。人が人に対して決してやってはいけないこと。それは、人を貶めることで自分が高く上げられる、望むものを手に入れる行為だと。これが無くならない限りは争いなんてなくなりやしません。

いくら最新理論を知っていたところで、人としての規範や自己犠牲の愛が分からない人は、何の意味もないのだ…と思うのです。

Find my Tokyo

昨年末からオフィスが青山一丁目から半蔵門に変わった。組織の急拡大に伴い、あっという間にオフィスが手狭になったからです。

千代田区一番町。番町は江戸時代から武家屋敷が立ち並び、維新以降は役人や華族が居を構えた邸宅街だっただけあって静かで落ち着いた街。周囲を散歩するに気分のいいところです。

一方での難は、家からの距離が遠くなったこと。6キロくらいだった南青山。これは自転車ならほとんどご近所感覚。

一番町は、11キロあります。しかもアップダウンあり。渋谷、霞ヶ関、浜松町、虎ノ門、新宿、南青山…これまでのオフィスで一番遠いかも…

でも僕の好きな神保町が近いし、千鳥ヶ淵が近いから、今年の桜は毎日見に行けるかな…なんて楽しみもあります。

Find my Tokyo.

オフィスが変わると自転車での新しい道から発見があるから楽しいんですよね。

ノブレスオブリージュ

池井戸潤の小説には、非常に分かりやすいワルが出てくる。彼らは、弱い立場にあるものを、持ちうる限りの合法的な手段で攻撃してくる。融資の引きはがし、取引の停止、特許の侵害・・など。弱者にいる主人公は、いつも窮地に追いやられる。

だけど、実際には誰からどう見てもハッキリと分かる悪なんていない。

誰だだって弱さや狡さというのは持っている。それが『モンスター』に育たないように普通はコントロールする。危険なのは、モンスターを放し飼いにする力を手に入れた時である。

地位と名誉を手に入れたい、好きな異性をモノにしたい、冒した不正を隠蔽したい…

力を手に入れた時、その力を何のために使っていくのか。その人の持つ姿勢が問われる。変化の激しい時代。全知全能、万能の神になることができないのなら、自己の限界、無力さを理解した上でメンバーの力を発揮させていくためのお膳立てをするのがベスト。『サーバントリーダーシップ』というやつだ。古くはノブレスオブリージュ。

その上で一番大事なのは、子供のような心で人の行っていることを訊き、相手の心の声に耳を傾けること。そう、松下幸之助さんのように。

アンビバレンスのエピローグ

一度決めたら、思い込んだらやり抜いてしまう一途な性格。

芸能界入りを親や先生に反対されたときも、学年一位の成績を取る、名古屋圏の統一模試で5位以内、県下トップクラスの高校に合格する…という途轍もない目標を掲げ、その約束を果たしてしまう。

芸能界入りをし歌手デビューをしてからは、同じ事務所の先輩であるポスト松田聖子の筆頭候補と呼ばれるように。未来に拡がるキャリアは前途洋々。

そんな中、彼女が心を奪われたのがドラマで共演した俳優のMだった。寡黙で直向き、時折見せる快活な笑顔。成熟した実直で信頼できる大人の男。早熟で聡明な彼女から見て、理想ともいえる男性だった。

だが、運命は非情だ。彼には子供と婚約者がいる。それでも募る想いは留められない。彼女は自分の想いを綴った手紙を書いた。

その返事は彼女の心を打ち砕くものだった。彼は自分のことを子供としてしか見ていない。『お嬢さん』手紙にはそう表現されていた。

息もつけない多忙を極めるスケジュール、彼女は心のバランスと自信を完全に喪失してしまった。早熟な自分と未熟に見られる自分。生きている世界の全てが儚く、無意味なものに思えてしまう。彼女は自分という存在に耐えきれなくなった。

朦朧とする意識の中で手首を切り、ガス栓を開放した。だが、自殺は発見者によって未遂に留まった。

翌日、事務所に呼び出された。優しく労りの言葉を受けつつ、言葉は頭に入ってこない。ただ、多くの人を混乱に巻き込んでしまった自己の罪悪感が彼女の心を締め付けていく。彼女は全てを終わらせようと屋上へ駈け上がった…


彼女の自殺はセンセーショナルに報道された。飛び降りた現場に飛び散った脳漿の写真。俳優との不倫関係の果ての失恋だと伝えられた心ない報道。本当のところは不倫関係も何もなく、一途な彼女らしい思い込みとケジメだったのだろう…

30年以上ぶりにキチンと聴いた竹内まりやプロデュース曲を集めた岡田有希子コンピレーションアルバム。非凡な才を感じる透明感のある歌声。もちろん楽曲は素晴らしい。

一途で強い想いは、アンビバレントな思春期の脆さの中で彼女の存在自体を滅ぼしてしまった。とても残念で哀しいエピローグだ。

ホステスのいる店

あまり酒場に行くことはないから、昭和スクリーンの向こうの想像の世界だった「スナック」。カウンターがあって酒とつまみを出してくれてカラオケが出来るという店構え。そこに、ママがいて酌をしたり唄を歌う女の子が幾人かいる。

昔はそれとわかる看板がかなり目についたけど、こういう構成のお店はかなり減っている。とはいえ、都心からかなり離れた工場主体の街では、場末という言い方が相応しいスナックが今でもちゃんと生き残っていたりする。

普段に酒を飲む趣味の無い人間としては、ショットバーなどに行くこともなく。スナックなどと言えば尚更ない。そもそも、女の子が酌をしてくれる店というのは苦手なのである。だいたいだ。好きでも興味もない、サービスとして接してくれる女性にちやほやされることのどこが嬉しいんだろうか…

学生の時、内定をもらった会社の懇親会の二次会では、バニーガールの女性がいる店に行くのが常だった。胸の間にライターが挟んであり、たばこが吸いたいとそこからライターを取り出して火をつけてくれる。

同僚の一人は偉い感動し、俺もたばこを吸おうかな…と真面目に考えていた。田舎者の馬鹿丸出し…やれやれだ。


昔、キャバクラが好きだというクライアントがいた。その人に、無理矢理に渋谷のお店に連れて行かれた事がある。素性も知らず、好きでもなんでもない娘とその場限りの薄っぺらい会話をするという事を全然楽しめなかった。会話力でいけば、僕の方が断然ある。この頭の弱い彼女をなぜ僕は金を払ってまで無理な会話で楽しませる必要があるのか…さっぱり意味が見いだせなかった。

倉科遼の漫画に出てくるような品のあるキャバクラ嬢などいないのです。いたとしても、お金と時間を費やすだけ無駄無駄無駄。無駄なことは嫌いなんだよね。

スナックはそこまでべったり女の子が張り付いてくることはないので、気は楽ですが。

それでもやっぱり居心地の悪さを感じちゃう。そして、家に帰ると無性に寂しい気分になる。それは、酒の場に行くのなら、気心の知れた人との裸の会話を求めているからかもしれない。

そんな中で唯一記憶に残っているのは、ある工場常駐の案件があったときに行ったスナックの女の子。極めて普通の人だった。

歌を歌ってよ…彼女にマイクを渡されて1曲歌った。

『あなただったら、尾崎豊がいい。そうね…』

彼女が入れた曲は、"僕が僕であるために"という曲だった。もちろん曲はよく知っている。でも人前で歌ったことは無かった。

歌い終えると彼女はいった。

『やっぱり、合っているわ…』
確かに曲は歌いやすかった。僕は不思議な感覚に包まれた。

帰るとき、『また、お店に来てね…』という言葉が珍しく小骨のように心に引っかかった。結局、僕はそのお店には行くことはなかった。でも、尾崎豊が好きな彼女とは話を続けたかった気がする。