Homare's Diary

組織人事コンサルタントの徒然日記です

会議の限界

何かと皆の意見を仰いで決めたがる人がいる。自分に自信がないし、嫌われたくない、責任を取りたくないからだ。こういう人が好むのは会議である。会議をして意見を聞いて、仕事をした気になっている。

『3人寄れば文殊の知恵』という諺がある。だが、専門性も自信も勇気もない人が、何人集まろうが何も出やしない。『三人寄っても下種は下種』『百人寄っても出ぬは金也』なのである。

問題は、会議の生産性もさることながら、個人技が磨かれていないことに尽きる。サッカーでも野球でも、チームプレー以前に個人技の確立が大前提。チームプレーだけで何とかしようとするから、出来る人にしわ寄せがくるし、できない人はやっているふりをすることになる。

働き方改革というと、仕事の仕方にどうしても注目が集まってしまう。だけど、マインドとスキルを抜本的に変えなくては、結局果実をもたらさない。リーダーにおいては、不確実性の中で決断をする覚悟と広い視座であり、メンバーにおいてはリーダーを支える主体性と専門性だ。

外野に気を取られていても仕方ない。一騎当千たるべく自分の技量を磨くのが一番いいのだろうね。

無私利他とストーカー

『君はストーカーになったことはないかね…』

ITから戦略へのビックチェンジを狙い30代で転職先として選んだシンクタンク。内定をもらった後に、社長と差し飲みをするという機会がありました。そこで聞かれた質問。

ふられた相手につきまとうということはしたことはありませんでしたから、「ないです…」という答えをしました。

『そうか、それはいい。君はI君と一緒に働くことになると思うが、素直な気持ちで頑張りなさい。彼は、人格的には実に優れている。君は運がいいよ…』

Mさんは満足そうに頷いた。コンサルタント会社の経験はないが、海千山千の事業会社で上り詰めてきた人ならではのオーラのある人だった。それもギラギラしたものではない、どちらかといえば哲学系の人。後に座右の銘が『無私利他』であると聞いて合点がいった。

Winner takes all.
Up or out.

自分の頭の良さ、力を自負し周囲のことには目も向けない。実力主義といえば格好がいいが、おおよそエゴイストの人間の多いコンサルティング会社。

無私利他とは、自己のエゴためではなく他人の利益、幸福のために生きるという考え方。僕の好きな稲盛和夫さんが掲げる京セラ『敬天愛人』の理念も同じ。ある意味で斬新なものだった。

ストーカーというのは、無私利他とはおおよそ真逆の人がやる行為。自己の欲求のためには、他人の心や幸福など顧みることすらしない。

彼らの論理はこうです。

・自分はこれだけ愛しているのだから
・自分はこれだけ犠牲を払ってきたのだから

ゆえに、その対象は自分の支配のもとであるべきである…ということ。一方的な交換経済原則の押しつけ。自己犠牲の愛など欠片もないのです。

はっきり言ってこういう人と幸せな家庭など築いていくことはできないでしょう。

一方でストーカーに付き纏われる人って、相手の未練を一刀両断で切り捨てる「覚悟」と「愛」がない人が多いですね。都合よくつなぎ止めておく余地を残すから相手も成仏できずにストーカーになってしまう。

結局、自分の都合を優先させているという観点では、同類項だったりする。そうした意味で僕がストーカーにならずに済んだのは、好きになった相手において、「覚悟」と「愛」がある人だったからとも思うのです。

Car Inspection Round5

二年に一度の自動車検査(車検)。期限が1/10なので年明けの恒例イベントとなってきました。自分で車検を通すのも5回目となるとおおよそ要領はわきまえています。

今回のチェックでは光軸は調整なしの一発クリア。なぜかロービームのみでハイビームに関するチェックがありませんでした。市街地におけるハイビーム義務化の影響を受けてのことなのでしょうか…

チェックで引っかかったのは、ウィンカーの色抜け。オレンジ色が白色に近いとだめだそうで、リア両サイド、右サイドがNG。

そんな時は、鮫洲陸運局の向かいにある整備場に車を持っていきます。バルブライトは一つ700円。ですが、工賃が一カ所につき1700円かかります。高っか!サイドウィンカーは交換に骨が折れそうなのでそこだけお任せし、リアは自分で交換。知識があるとコストセーブができます。

チェックは無事終了。車検費用は1800円とライトバルブのみ。占めて5600円也。

初年度登録2003年で17年もたつと、今回の車検までの間にはいくつかトラブルがありました。スピードメーター交換、イグニッションコイル交換…とはいえ、どれもヤフオクの二次流通パーツを取り寄せて交換したので1/10位の出費。

古い車は部品取りで流通しているパーツが多いので、欧州車とはいえランニング費用はかなり安いんじゃないって思ってます。普通は、欧州車は10年を超えるとランニングコストが高くて買い換えというのがこれまでの常識ですが。中古部品の流通市場が確立された今となっては、ディーラーによって作られた古い常識といってもいいかもしれませんね。

未来、ポジティブ、自分ごと

昔話、病気話、子供話…

Around40あたりの人からめっきり増えるこの手の話題が苦手なのです。場を維持するにはある程度仕方がないとも思えるけど、この手の話題しか繰り出さない人と時間を過ごすと、インスパイアされるものがなく、何かえらい時間を無駄にしたな…という気分になるのです。


この話題に欠けているのは、『未来』『ポジティブ』『自分ごと』という観点。これができないのは年寄りの証拠。だいたいさ、子供の話題ばかりしてお前の人生はもう終わりなのか…って言いたくなっちゃう。人に期待を託す前にやることあんだろ…と。


自分に向き合い、自分の心を情熱で満たすことに時間を費やす。自分自身の人生を生きているのだから。そうしていれば、会話の中身は自然と未来でポジティブなものになってくるはず。

一緒に話していてインスパイアされて楽しいのは、『未来』『ポジティブ』『自分ごと』の話ですよ。やっぱね。

My Hero

世の中には様々なタイプの”ヒーロー”がいる。彼らの共通点は、難局を乗り切ったり、問題を解決するために持てる力を駆使して活躍するという事。

誰しも憧れのヒーローというものが存在する。個人的なヒーローとしては、アメリカドラマ「冒険野郎マクガイバー」の主人公であるマクガイバー。日本では、TBSの金曜ロードショーと深夜枠で80年代後半に放映されている。

このプログラムは、アメリカでは放映終了して30年近く経った今でも絶大な人気を誇っている。日本においては、「エアーウルフ」「ナイトライダー」「ブルームーン探偵社」の様に定時枠で放映されていなかったので、人気や知名度も限定的と思われる。

リチャード・ディーン・アンダーソン扮する主人公の妙味は、抜群の運動神経と豊富な化学、物理学の知識を活かし、身の回りにあるテープやクリップ、洗剤などのアイテムを使ってブービートラップを仕掛けたり、絶望的な状況から脱出する機知を発揮していく所にある。ポリシーは決して銃を使わない。必須アイテムはアーミーナイフとダクトテープ。

学生時分に興味をもって眺めていたのは、フリーエージェントとして、フェニックス財団というシンクタンクから特命ミッションを負って動く働き方。”フリーエージェント”や”シンクタンク”というキーワードは今では分かるけど学生時代においては全くイメージが付かない言葉だった。

果たして幾星霜が経ち、実際に自分がシンクタンクで働き、フリーエージェントとなり。特定分野のスペシャリティを持って問題解決のミッションを担うという働き方になってみると、憧れのヒーローというのは自分に少なからず影響を与えていたんだなと思うのです。

休息を優先させるプログラム

2016年Sperandeiらは、フィットネスセンターに新規で通いはじめた5,240名を対象に、12ヶ月間にわたるトレーニングの継続率を調査した。結果、継続率は開始から3ヶ月で37%、半年後には14%にまで減少。12ヶ月後まで継続できたのはわずか4%未満だった…

レーニングが長続きしない理由は、人の進化過程である狩猟時代において余計なエネルギーを消費しないようにプログラミングされたままであるからというハーバード大学Libermanの説があります。

さらに将来的に健康的な体やプロポーションを手にできるというインセンティブが分かっていたとしても、心にプログラミングされた今の休息のメリットを優先させたいとする『現在バイアス』が働くため、トレーニングは継続しづらいと言うのです。

実験として金銭的インセンティブを与えた場合は、トレーニングの継続率は上がるようです。でもこれも決定打ではありません。Libermanによれば、心にプログラミングされた内容を書き換える特効薬は無いのだそうです。

僕はジムに行くことはしませんが、日数間隔の腕立て伏せ(200×3セット)と週末のランニング(20km)は30年近く続いています。極めて怠惰でいい加減な人間なのに。もしかすると、プログラムが少しだけ書き換わったからかもしれません。

多分それは大学時代の闘病と入院明けのリハビリ。45日ベッドに磔になり身動き一つすらできない状況の後では、野球部で鍛えてきた体は文字通りゼロ。腕立て伏せも最初は数回しかできなかった。走ることももちろん。でもちょっとづつ回数を増やしていきました。そして今に続くのです…

きっと、休息よりも回復させるにはトレーニングをすること。それをしないと暗黒の病床生活に戻るかもしれない…というプログラムが。

それを考えると、若いときの体験というのは貴重だったんだなあと思うわけです。

エロスとアガペ

フランスの文学者で「愛について—エロスとアガペ」を記したドニ・ド・ルージュモンは、愛と恋の違いについて、こう言っています。

「惚れるのは状態であり、愛するのは行為である」

若い二人が恋に落ちる。うちに結婚を行い子供が生まれ、守るべき家族ができる。男女愛は家族愛にステージを移していく。家族愛とは、守るべき存在のために自己犠牲を払うということ。欲しいもの、自己の価値観から見て譲れないものがあってもそれを諦める。そして、そこに見返りを求めない。それが家族愛。

男女愛のステージにおいては、往々にしてすれ違いが生じます。女性においては、一般的に自分が“一番”になるより、“唯一”であることに拘る。反対に男性は"一番"に拘る。この価値観のズレが溝を生み出す。

すべてがオールクリアにならない、なりようがない状況。全てを手に入れることなんてできない。全てを手に入れられなくても、互いの存在を大事にする気持ちがあれば、きっと乗り切れる。とはいえ、唯一か一番かというすれ違いの溝は埋まらない。決定的な違いとなってしまう。

高杉晋作が愛した『おうの』という妾。彼女においては、"唯一になりたい"という想いは完全に封印されていたようです。そしてそんな彼女のことを高杉晋作も終生慕っていたようです。

一方で太宰治が入水自殺をともに遂げた愛人の山崎富栄は彼を唯一の存在とするために心中という選択を取ります。唯一の愛を取って相手を殺した富栄、自己犠牲の愛をとって晋作に慕われたおうの。これがエロスとアガペの違いなんでしょうね。