Homare's Diary

組織人事コンサルタントの徒然日記です

七五三の答唱

日曜ミサ答唱詩編ローテーション。だいたい、2ヶ月おきくらいに回ってくるのですが、僕の当番の時には子供関係のイベントであることが多く。今日は、七五三のお祝いでした。

普段は日曜学校の子供たちと大人のミサは時間が異なるのですが、今日みたいな特別な日は一緒。聖堂の前方には晴れ着を着た子供たち、そしてつぶらな瞳のちびっ子達が頭を並べています。

子供たちも加え何時もより列席者の多い聖堂。こういう日は、聖歌には子供達の歌が多くラインナップされているのがいいのです。子供の合唱曲は、優しくて元気のいい曲が多いですから。

答唱のソロシンガーとして子供の後ろとなる前方に席を控え、出番を待ち一人の会衆として歌を歌います。子供たちが振り返ります。大人で大きな声で歌っている人なんていませんものね。でも、小学校の音楽の時間でも歌は恥ずかしがらずにいつも大きな声で歌っていました。歌を歌うのが好きだったから。

答唱は聖堂のドームを仰ぎ見て歌詞をメロディーに乗せて届けます。会衆はおよそ500名くらいでしょうか。今日は、自分のイメージ通りに歌うことができました。7年もたつともうすっかりルーティンですが、こういう大衆の面前で歌う機会というのは貴重な機会だと思うのですよね。

セミナーや研修講師をする機会も多いですが、ここまで大勢の場というのはないですから。まあ、度胸は断然身につきます。そして、しっかり歌った後には心の底からスッキリとしますから。

座敷に呼ばれてナンボ

コンサルタントは芸者だから、座敷に呼ばれてナンボな訳です。本人がいくら能力があると思っていても、PMから見て使いづらい、顧客先に出せないとなればお呼びがかからない。

その結果は、スタッフにおいては課金可能な稼働率として一目瞭然なわけです。マネジャー以上においては、売上金額となります。売れない芸人と同じで、一流と三流を見極めるのは簡単です。

気をつけなくてはいけないのは、たまたま売上の大きなプロジェクトにアサインされているという状況です。これは、別に本人の実力があって『売れている』訳ではない。この状態で、仮に上に行ったとしてもメッキが剥がれるのは時間の問題。マネジャー以上においては、自分の得意の十八番ばかりで売上を稼ごうとしていると、いつしか時流に乗れなくなり売れなくなります。

立場の高低に関わらず共通していることは、芸者の価値というのは『相手が認めるところに価値がある』ということです。

いくら勉強して知識があろうが、どれだけの経験を積んでいようが関係なしです。自分を知ってもらう努力、相手に貢献する観点での行動なくしては存在意義なんてない。


勘違いするのですよ。何かを知っている、何かができる…というのが専門家の価値基準の中心だとね。僕はインディペンデントも長かったのでなおさらなのですが、安易に引き合いや案件遂行の機会を断るとか信じがたい。好きなことだけ深掘りしている学者や研究者じゃないのです。(その意味で、あの人は学者だという表現を受けることは、コンサルタントにおいて最大の皮肉です)

でもそれって、専門会社に限った話じゃなく、事業会社でも同じじゃないかと思うのです。対価というのは、人を喜ばせて生じるものなのですから。

料理をする力

堀場製作所の堀場社長は、日経新聞電子版コラムで日本女性の素晴らしさとして「料理をする力」を挙げていた。

イタリアン、フレンチ、中華料理、日本料理。日本の女性は、多様な料理を手際よく当たり前のように作る力を持っている。中国に行けば中国料理のみ。イタリアならイタリアンしか作らない事からすると、世界一贅沢な食習慣を持っているのが日本人であり、それをいとも簡単に実現する日本女性というのは非常に優れているのだ・・・と。

時間とコストの制約がある中で、作る料理を決め、多様な料理を日々作るのは創造性と段取り力のいる高度な仕事。頭が悪くてはとても出来ない。

我が家などは、僕も子供もお昼にはお弁当をもっていくから。4人分のお弁当を含め日に3回の食事をバリエーションを持って作るわけで。作るだけでも相当な労力なのに、内容にも日々変化を持たせるというのは、相当に知的な作業だと思う。

妻は凝りだすと止まらないので、料理やお弁当のレパートリーを拡げるために、図書館から山のように本を借りてきて研究をしており。全く持って頭が下がる。堀場さんの言っていることはごもっとも。。と思ってしまう。

妻に限らず、料理の腕に磨きをかけている女性は多いと思う。
一方で家事というのは、ビジネスと違って人と比べた大きな賞賛や評価は得られない。だから高等教育を受けた女性は、家庭に収まって家事を行う事は、自身のあり方として相応なのかという悩みを抱いてしまうものだけど。

そうした優れた女性がいるからこそ、日々の贅沢な生活が成り立っているのでしょうし。彼女たちの存在こそが日本の底力とも言えるのでしょうね。

女心と秋の空

男が怒る場合、そこにはおおむね「こうこうこうだから怒る」という筋道がある。女の人は、多くの場合そうではなく、普段は特に目くじら立てることでないことも、それが怒る時期になっていれば怒るし、それもかなり真剣に怒る。

そのような時には防御を固め、おとなしくサンドバッグ状態になるしかない。自然災害に正面から立ち向かってもまず勝ち目はないからだ。風がやんだら、そろそろと頭を上げ、慎重にあたりの様子をうかがう。事態は一段落したようだと感じたら、こっちのペースに戻って鼻歌交じりに適当にやっていればいい。(村上春樹 ブルテリアしかみたことがない)

僕もこの『平穏無事な共同生活を送るための実際的知恵』を獲得するまで、何度嵐の中で無駄な抵抗をして、酷い目に遭ってきたことだろうか。いや、今でも知恵が足らないから酷い目にあい続けている。

それは、嵐の中での無駄な抵抗はもちろん駄目だけど、ただサンドバッグになっていれば済むというわけでもないから。そもそも、この不規則な気候の変化を見抜く感性に欠けるのが、根本的な問題なんだよね。

設計は思考、運用は感情

失敗が多い人事制度。その原因の多くは評価制度を中心とした運用にある。評価のメリハリが付けられないため、年功者の既得権が維持される。若手の優秀者が集団に埋もれる。

制度改革の理由は何時だって大して変わらない。

・報酬の適正配分
・戦略実現に必要な人材の確実な登用・抜擢の具現化
・成果創造に寄与する行動発揮・能力開発の促進

ざっと上記の3つであり、優先順位が変わる程度だろう。そして、制度の要である等級(偉さの基準)も、保有能力、発揮行動、役割・職務の3つしかない。

目的も手法もさほど変数がないにも関わらず、運用が失敗してしまう理由。それは、設計は思考で正しさを追求すればできあがるが、運用は人間の感情が左右しているということ。

TO-DOは思考、Executionは感情。

面倒くさい、メリットを感じない、自信がない、相手の怒りや反発が怖い…

負の感情で彩られた評価制度はまともに運用されなくなる。その裏側には、無難な評価をつけて然るべき年次で昇格させとけばいい…という年功と同調圧力が意識に強く働いている。

なんだかんだいって、日本企業は新卒から定年まで年次で管理されるゲゼルシャフトムラ社会)であり、ゲマインシャフト的(機能合理)な制度運用ができるマインドを持った人間は少ない。

ゲゼルシャフトの同調文化に、欧米型の職務等級、処遇制度なんて木は到底根付かないわけで。負の感情が起きないように土壌改善をしないことには、いくら木を植え替えてもうまくいかないんだよね。

裁くより愛せる人に

「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量(はか)る秤で量(はか)り与えられる」
マタイによる福音書 第7章


他者の欠点や問題ほど良く見えるものはありません。これを指摘したり、裁くなら同じように自身も裁かれるわけです。

人間という存在は、そもそも不完全なものです。誰においても長所と欠点がある。だから一人では生きられない。目につく欠点と見えるものは、指摘しようとする人において不得手な領域であったり、配慮を行いがたい状況にあることも少なくありません。多くの場合は、動機善なりの結果。池井戸潤の小説に出てくるような分かりやすい悪なんてほとんどないのです。

ですから、その事象だけを切り取り裁きを行って一体何が生まれるのでしょう。下手をすれば、自身の盲点だった欠点を裁かれるだけです。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず石を投げなさい。

「姦通の女」ヨハネによる福音書第8章3〜11節

ここでいっていることも全く同じ。イエスは愛をもって赦すことを説いているわけですが、裁きを行いたくなる人は、ある意味で自己愛だけで隣人愛のない人だともいえるでしょう。

でも陥りがちな罠はわかるのです。相手のことを知ろうとしない、相手の様子から言外の様子を察しイメージを持っていく、簡単に言えば共感力の欠如なのです。

いくら頭がよく論理が明快でも、人の痛みがわからない、むしろ分かろうとせずに人を裁くことに執心しているって、大人としてかなり残念なこと。

「親からちゃんと愛されているのに、親たちの小さな欠点が見えてゆるせなかったこともありました。いま私はちょうど逆の立場になって、私の若いときによく似た欠点だらけの息子を愛し、めんどうな夫がたいせつで、半身不随の病気の母にできるだけのことをしたいのです。」

「これはきっと私が自分の力でこの世をわたっていく大人になったせいだと思うのです。大人というものはどんなに苦労が多くても、自分のほうから人を愛していける人間になることなんだと思います。」

いわさきちひろ おとなになること

ちひろさんは、本当に素晴らしい言葉を残しています。この通りなのだと思うのです。

重くを軽く 軽きを重く

点前には重きを軽く軽きをば 重く扱う味わいをしれ

茶道の点前において、水指のように重たいものはそれを感じさせないよう扱い、茶杓のように極めて軽いものは大事に扱えという原則を利休は歌に定めています。

同じように、難しい話や深刻な話は、譬え話を入れて分かりやすくしたり、時にユーモアを交えながら話す方がよいと思うのです。一方で些細とも思う話でも、軽々しく受け流さず時に耳を傾けて聴く。

ビジネスパーソンで、難しい話を専門用語も交えて高尚に、なおかつ神妙な面持ちで立て板に水のごとく流暢に効率的に話すのがいいって思っている人がいます。

Too young…まあ、そういう人はおおよそ人の本質を理解していないからそうなってしまうのです。正直、印象、芸術点評価ゼロ。背伸びしたくなる気持ちも分かるけどね。

討議やプレゼンの時間をカチカチ管理し、小難しく神妙な顔をして会議をするより、わいわい意見を出し合って時に笑いが起こるくらいの方がいいアイデアも浮かぶものです。深刻なことを神妙な顔をして話し合ったら、時に事を余計に複雑に深刻にさせてしまうことでしょう。

この辺の感覚は、人の感情を動かす音楽や芸術に通ずるところがあると思うわけです。芸術の世界においては、身分の上下もないし、効率性も関係ありません。どうやったら人の心が動くか。

ナレッジワーカーは、サイエンスだけではなくアートやウィットのセンスも重要なんですよね。