Homare's Diary

組織人事コンサルタントの徒然日記です

リ・スタート

1ヶ月は何もできなかった。身を運ぶだけが精一杯。文字通り日々這いつくばるように生きていた。


2ヵ月目から松葉杖がなくなると、ようやく腹筋運動ができるようになった。ボクシングアニメ『あしたの一歩』を見ながら…


3ヶ月目から腕立て伏せができるようになった。松葉杖で痛めた掌底が痛むけど、200回3セットをこなしていた受傷前のレベルに何とか戻った。


医者から、そろそろ走ってみましょうか…という提案もあり、昨日は丸三ヶ月ぶりに走ってみることにした。往路4キロの駒沢公園周回はさすがに避け、家の前にある林試の森公園の周回。


受傷した左足はまだ硬くペースはゆっくり。いつもなら、キロ5分前後のペースだけど、6分前後のペース。でも、足が温まって腱の可動域が上がってくると想像以上に走れる感覚。10キロを走ろうかと思ったけど、初日なので7キロで終えることにした。ま、上出来である。今日は、久しぶりの筋肉痛。毎週走っていたときは、筋肉痛なんてなかったな…

 

 

これから、体を再建していけば、秋にエントリーしたハーフの大会にも出られそうである。焦らず自分の体を見つめながら…

トリオセッションの醍醐味

『三人寄れば文殊の知恵』とはよく言ったもの。単に三人集まればいいというわけでは無いのだろうけど、互いを尊重し、持ち味の異なる三人が集まると一人では全く出せなかった新たな知恵が出るものです。

 

 

 

しかも、知恵を出すプロセスが実に愉しい。3人だと会議では常に対話が成立するし、異なる視点がそこに随所に交ることでスパイラルアップが図られるからでしょう。

 

 

 

対話のラリーがいつしか梯子になり、届かなかった二階に辿り着く。M嬢とK嬢と昨年行っていたプロジェクトは、それを肌で感じられるものでした。

 


今年は、それぞれ個別のプロジェクトに埋没していますから、トリオセッションの機会はありません。デュオをしてもなんか違う。イマイチ物足りないのです。

 


昨晩は、久しぶりにいろいろな話をしました。それぞれが、なぜ故に心に埋め切れない空白があるのか。それは、忙しさや直面している課題の難しさということではないのです。

 


トリオによる噛み合う対話のプロセスというものは、知恵を生み出すだけではなく、カタルシス(精神的な浄化)を伴うものだからだと思うのです。相手を尊重する気の置けない人と、語ることの大切さ…これが想像以上に大事な要素なのだと、昨晩は改めて思ったのでした。

ギフト(天分)を活かす

統合会社の組織開発プロジェクト。今日は、クロスファンクションチームのサーバントリーダー役に選ばれた方々に対するキックオフ研修の講師でした。狭い会場にはノミネートされたメンバー40名。

 

かっちりした研修より、緩さやアドリブが必要な研修のファシリテーションって大好きです。受講者とわいわい掛け合って、笑い交え楽しくやっちゃいます。

 

夜は、異なるミッションとバックグラウンドを持ちつつも、同じ立場にある参加者同士の相互ネットワークを深める懇親会でした。

 

全員に挨拶を…と頼まれてスピーチをしたのですが。終わると、こんなうるさい飲み屋での挨拶なのに、あなたの声はすごく通るのね…隣で話されているみたい…。研修の時からそう思った…と何人もの方からそう言っていただきました。

 

家でも職場でも、貴方は内緒話ができない。話しているとすぐに分かっちゃうから…といわれることも多い訳で。

 

でも、多くの人に言葉を届けるという役回りにおいては、この声がとても役にたったりする。

 

先日、アセスメントフィードバックの実技演習のオブザーバーの方からも言われたのです。『あなたの声は、ギフトだから大事にした方がいい…』と。

 

昔、世の中の仕事というものを知らなかった頃、文章を書くということ、声を使うということを活かせたら…と漠然と考えていたときがありました。新聞記者やアナウンサーといった直接的な仕事は選びはしませんでしたが、幾星霜かを経ると、確かにそうしたことを活かせる仕事をしているのだ…不思議なものだと思うわけです。

腐海で溺れず、メーヴェで飛ぶ

状態把握と解決を目的とした調査は、設問設計において仮説モデルをくみ上げたうえで行うことが望ましい。因果律の構造となるモデルを事前に考えて作る。適当に設問を並べ、あとで相関分析などを行ってモデルを作ろうなんて考えてはいけない。


それは、仮説なき調査でありまずもって何も導き出せないことが多い。


あるメンバーがアンケート調査について、膨大な結果データと格闘していた。彼女は溜息交じりにぼやくのだ。このアンケートを分析して何が導き出せるのかが分からないと・・こんな不毛な作業をして何の意味があるのか・・と。


設問と過去の報告書を見てみる。確かにひどい。膨大な量こそあるが、何が言いたいのかが分からない。ざっとみて問題点は6つ。


①設問が構造化されていない (主要指標と従属設問という構造的な関係性がない)
②仮説モデルを置かず、MECEでない設問が羅列されている(結果状態を聞いているのか、状態誘因行動をきいているのかが分からない)
③回答スケールが設問ごとにバラバラである (五件法などで統一がされていないため、相関分析も不可能)
④結果状態のロジックの妥当性が見えない
⑤レポートは設問結果の羅列に過ぎず、示唆を与える内容となっていない


PMと製作者に意図を聞く。プロジェクトはうまくいっており、調査もそれなりのものだと言われてきたプロジェクトにしては、残念な内容である。


すでに抜けてしまったPMからは、問題点の指摘に当時の経緯と合わせて謝罪のメールが送られてきた・・可哀そうなのは、この調査に協力した社員とゴミデータの分析に格闘する彼女である。分かっていて黙殺されたのである。


真実が明らかにされたことで、彼女の心のもやもやはひとまず晴らせたといえる。


だが、彼女の態度にも問題がある。そもそも、おかしいと思ったことをぶつくさ言いながらも耐え忍んでやるというのは、おおよそコンサルタントの態度じゃない。彼らと同罪なのだ。そして、おかしいと思ったならそれをきっかけにして、正しい姿を描くための学びをしようとしていないのは、全くなってない・・・。それじゃ、永遠に卑屈な作業者をやり続けるだけだ・・と。厳しいけど彼女にはそう伝えた。


だいたい、上の人が言ったから正しいと思ったのです・・とか。そういう自分の頭で考えない盲目的な人は付加価値ゼロなのだよ・・。久しぶりに、いろいろな人に吠えてしまった…


例え、誰が主張する意見であったとしても、おかしいと思ったらまずその「不」を表明する。その勇気というものを僕は新卒入社の動機の女性たちの態度から教わった。それは今でも生きている。

 

そして大事なのは、問題に満ちた腐海で溺れずに、あるべき姿という俯瞰した世界を見るためにメーヴェで上から飛ぶ。すると景色はまるで変わる。不満など出なくなる。学びは、自由な翼を手に入れるためにするのだから。

バウハウスウォッチ

バウハウスの流れをくむシンプル、端正かつ優美なデザインのジャーマニーウォッチ。ノモス、ユンハンス、ユンカース、ツェッペリン

 


がさつな人間においては、マックスビルでも採用されているデザイン重視のドーム形ミネラルクリスタル風防は、あっという間に傷だらけにしそうです。しかも、結構いい値段。

 


マックスビルで有名なユンハンスから、サファイアクリスタル風防のバージョンが出たというので、先日入った原稿料で購入したのです。デザインはさすがユンハンス。インスパイアさせてくれます。

 


とはいえ、汗かく夏場はレザーバンドの時計は装着局面が少なく。僕みたいな自転車乗りは、結局メタルかウレタンバンドの防水時計が使い勝手がよいわけなんです。

 


分かってるんです。こういう装飾品に目が向く時というときは、自分の肉体への関心と期待が下がっている証拠なのだと。

 


高級クロノグラフを身にまとっている人においては、自分の肉体を磨く意思を放棄した人の抵抗にも似た自己主張が混じっていることが見て取れるからです。リハビリ、頑張らなくちゃ…

クラスメートの意味

目黒から青山に向かう道すがら、天現寺交差点の手前で右舷から外を見やった息子が声を上げた。懐かしい制服に身を包んだ小学生たちが門をくぐっていく。今日は彼の母校の同窓会なのだった。

 


「案内来てたよね…」

 


『うん、でも一回もいったことないよ』

 


「M先生は来てるだろ、会ってみたいって思うだろ…」

 


『まあね、でもOBがいくと手伝わされるし、面倒だし』

 


「社会人になって10年ぐらいして、それぞれの道を歩み始めるようになったら同窓会って結構味わい深いもんだぜ。お父さんも20代までは同窓会なんて誘われても行かなかった」

 


『そうなんだ』

 


「今もみんな同じ大学だし、わざわざ同窓会で会う有り難みってないだろ」

 


『まあね』

 


「それに当時の思い出に浸りたいとも思わない…」

 


『うん』

 


「お父さんも高校時代は落第生だったし、華やかな思い出もないし、自分が嫌いだったから、その頃の自分に引き戻す同窓会なんて、まず行きたいとも思わなかった」

 


『分かる。僕も中学時代はいじめられたりしてたし』

 


「好きでもない当時のあだ名で呼ばれて、わざわざいやな想い出をフラッシュバックさせる意味はないよ。むしろ、そういう過去を遠くに置き去っていきたい」

 

『そうだよね』


「うちに幼稚なヤツもまともになる。そして、案外と社会人になると専門分野が同じ人間としか会わないようになる。小学校、中学校の同級生というのは専門が違う。近すぎて見えなかった一面も見えてくる。それには、時間が必要だけどな…」

 


『でも、ちょっとわかるよ。大学になってから、小学生の時の友達と話したら全然違う感覚だった』

 


何の憂いも無かった小学校時代。彼はいつも楽しそうだった。状況が一変したのは、中学・高校。古臭い教育方針、狭量で小賢しいクラスメート。彼が学校嫌いになるのに時間はかからなかった。コントラストがありすぎた。

 

困難だと思われていた大学入学。ようやく自分らしさを取り戻しつつある。まだ、自分の状況を冷静に振り返るには時間が少ない。

 


世の中には、時間を経ないと解らないことがある。その一つが、二十歳までに出会った友人・知人の意味だったりする。特に彼のように子供らしい時代を6年もともに過ごした人であれば。

 

そう、自分の周りにいる人は、一見違うようで自分自身の中に持っているモノを持っているということに。

耐える心より、乗り切る叡智

自分に生じている困難。これを困難としてそのまま受け止めるのもありだろう。

 


だが出口の見えない、目的意識に紐付かない困難は人の心を疲弊させる。うちに自らの状況を嘆き愚痴をこぼすようになる。

 


この状態を続けることは、心身の健康に悪い。正直、無駄である。だが、それが仕事だと勘違いをしている人が世の中にはまだ多い。

 


困難の状況を変えるために叡智を尽くす。尽くした後は天命を待つ。そこに諦観も含めた意味を見つけていく。そうするとまず第一に持つべきは、困難を耐える心より、困難を乗り切るための機知ではないだろうか。

 


人生においては、そのまま受け止めるしかない困難が多い、だが仕事という局面においては機知で乗り切れる困難の方が遙かに多い。愚痴や文句を言っている人は、そのことを忘れているように思う。