Homare's Diary

組織人事コンサルタントの徒然日記です

8対2

6週間の両松葉杖生活では多くの人にお世話になった。特に電車やバスでは席を譲ってもらったり。譲られる確率は、優先席付近では8割。それ以外は3割程度。

 

譲ってくれる人は女性が8割、男性が2割。女性は、20代から40代。別嬪さんが多かった(そう見えたのかもしれない…)遠くからわざわざ声をかけてくれた人も。男性は、圧倒的に60代以上。20代から40代は、優先席で脇目も振らずゲームをしたり爆睡したり。

 

周りを見る、気配りする力は、圧倒的に女性が長けているということを肌身で実感。これで、管理職なんてやってたら部下は最悪なわけで。

 

女性活用を強制的にでも進めるメリットは、人に対する気遣い力の有無という観点でもあるのだろうな…

 

 

 

Baby Step

今日は組織開発プロジェクトで関与メンバーの方に対する研修講師としての登壇でした。前々から予定は決まっていたのですが、松葉杖をついて講師として立つのは、受講者側から見てもかなり問題。ですが、先週末から装具をつけて歩けるようになったので、ギリギリ松葉杖を持たずして講師を務めることが出来ました。これまでの僕の様子を見るにつけ、事務局の方も安堵していたようです。僕としても間に合って良かった。


今回のお題は、いつものキャリアではなく組織開発を促進させる上での管理職のマネジメントのあり方、ピープルマネジメントの重要性への気付きを与えるというものでした。


このプロジェクトは3年目で僕は今年からPMとしてジョインしたのですが、僕なりの解釈、新たな味付けを入れてプロジェクトを進めています。研修についても同じで、これまで行ってきたキャリアの観点も含め管理職がメンバーのモチベーションや本音のコミュニケーションを行う上での影響性について、ハラオチ感をどう持ってもらえるか。


果たして手応えは良かったです。受講者の方も事務局の方からも、新たな解釈や気付きが得られたとの感想。まずは新しい風を吹かせることが出来たのではないかと感じています。


そして、終了後は大阪に。受傷してからこれまで控えていた宿泊出張にもようやく行けるようになりました。春先から出遅れてしまったけど、焦らず出会いを大切に一歩一歩踏みしめていこうと思っています。

解放記念日

特別展がもう一度見たかったこと、庭園のバラも盛りであろうと3週間ぶりに鎌倉文学館を再訪しました。前回は両松葉杖でしたから、江ノ電の最寄り駅から文学館への道程は非常に骨の折れるものでした。今回は両足が使えるようになったので、前回と打って変わって楽な気分。バラは、少し早いかと思いましたがまあ見事に咲いています。

 

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前回、特別展「豊饒の海のススメ」を観たことを機に、三島由紀夫豊饒の海」を全巻買い揃え読み進めています。今は「春の海」が読み終わり「奔馬」。


「春の海」の舞台は、主人公の松枝清顕が在学する学習院、自宅の設定となっている代官山 西郷邸、別荘の州南別業(旧前田邸 鎌倉文学館)と馴染みのある場所で展開されるものであり、当時の様子に思いはせながら読むことができます。惜しむらくは、学習院在学中に「豊饒の海」を読まなかったこと。当時読んでいたら何を想ったことでしょう。宮家に結婚が決まり主人公の手の届かない存在となった綾倉聡子と許嫁がいた当時の恋人を重ねていたかもしれません。


今回の訪問では、心理的な余裕もあり特別展用に刊行されたパンフレットも購入。これは、永久保存版じゃないかな。

 

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文学館を見終わった後は、近くにある「雨ニモ負ケズ」というカフェに。ガイドなどには一切載せないというマスターのポリシーのせいか、お客さんは誰もおらずゆったりとした空間。なんでも、裏手には芥川賞作家、正面には直木賞作家、そして少し隔てたところにはノーベル賞作家の川端康成・・と文豪ゆかりのロケーション。確かに、ここは思索を巡らすにはいい時間が流れています。

 

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最後は、長谷寺に赴きました。まだ、装具をつけて片松葉だから階段は無理なんじゃないの・・とカミさんに言われつつも、疲弊もなく最上部に。ここからは綺麗な眺望を拝むことができました。6週間の不自由な生活とのコントラスト。新緑の眩しい光の中、久しぶりに肉体的に解放された自分を実感する一時でした。

 

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久しぶりの二足歩行

アキレス腱を断裂した左足は、これまで足首固定で荷重を架けることができませんでした。荷重をかけて足首を曲げてしまうと、腱がつかずに再度断裂するリスクがあるからです。

 


もうかれこれ丸6週間の両松葉杖生活を余儀なくされてきたわけです。今日は、怪我をした左足に装具をつけ、ようやく怪我をした足に荷重をかけてよくなりました。

 


装具は足首を固定し、ヒールのような高いかかとがついています。リハビリが進んでいくと、このかかとの高さを次第に低くし、最終的に装具がとれて完全な自由歩行が可能となるわけです。それまでは左右の足の高さも違うので歩行は当然安定しない。松葉杖はまだまだ必要ですが、軽く添えているレベルですのでかなり楽です。

 


装具は、これから6週間つけることになります。まだまだ自由歩行までには時間を要しますが、自分の足で歩けるようになったのは大きな進歩です。松葉杖も両松葉ではなく、片松葉になると片手が使えるので不便さから大分解放されます。

 

 

 

初日歩いてみた感想は思ってみたより歩ける…でした。これで、両松葉杖で掌底の耐え難い痛みに悩むこともない、汗だくになる腕だけの移動もない。かなりハッピーです。大したことないけど…

 


恢復はここまで順調に進み、切れていた腱はしっかりと前より太く繋がっています。かつては、手術しか回復法が無いと言われていたアキレス腱断裂ですが、1968年の保存療法での成功例以来、手術を行わずしての治療も増えているそうです。しかし、人の治癒力って大したものですね。

 


これから徐々に耐久性をつけ、柔軟性をつけていきます。6週間の松葉杖生活で、二の腕だけはかなり太くなりましたが、弱くなってしまった下半身はもう一度ゼロから鍛え直しです。ま、変化を味わってじっくりいこうと思います。

配慮と憐憫

松葉杖生活を長く続けていると、人の情に触れる機会が何かにつけ多くなります。何らかのハンディ、障碍、弱者に立った人がいたとして、その人にどんな態度で接するべきなのか?

 


実際にその立場に立ってみて実感することは、『憐憫の情』はかけてもらっても全く嬉しくないということ。むしろ嫌な感じがするということなのです。

 


眉をひそめ、哀れみの表情を浮かべ『まあ、なんて大変でしょうに』なんて全く言われたくない。だって、自身で可哀想だなんて思ってないんですから。アクシデントによる障碍を受容し、恢復に向けて淡々と過ごしている立場において、憐憫の情というのは、立場の上下を前提としたスタンスだからなのだと思います。そういう人は、優しい人だなんて欠片も感じないのです。もしかしたら、そうするのがエチケットだみたいに思っているのかもしれないけど。大きな勘違い。それであるなら、普通に接してほしい。

 


この人は素晴らしいなと思うのは、自分がその立場に立ったら?という想像の元にしてくれる配慮や言葉だったりします。

 


暑い季節に松葉杖にならなくて良かったですね…とか。

 


同じ痛みは味わえない、真の共感もできない。でも自分がその立場に立ったことを想像してみる。その上での配慮をする。それは、あらゆることにおいて大事なスタンスだと思うのです。

トランジション物語としての新・巨人の星

巨人の星は、あしたのジョーと並んで大きな影響を受けた漫画。新・巨人の星と合わせて全て揃えて何度も読み返していた。

 


巨人の星は、巨人にいながらも肩を壊したことにより、幻の名三塁手となってしまった父一徹の夢を叶えるべく、巨人のエースを目指す飛雄馬の物語。

 


幼少期から猛特訓を受け、鍛え抜かれたコントロールとスピードボール。一方で、体重が軽くボールが飛びやすいハンデを補うために、編み出された大リーグボール。何度か攻略され挫折をみるも遂には頂点を極める。一方で誰にも攻略できないが、自分の左腕を蝕む大リーグボール三号により、完全試合達成というクライマックスの瞬間に左腕が破壊され幕を閉じる。

 


大人になってから、共感するのは続編として書かれた新・巨人の星だったりする。

 


・長く培った技能、経験は、左腕の破壊という形で完全にリセットされている

・5年のブランクを経た復帰を、友人、ライバルがバックアップする

・父の夢でも、頂点でもなく低迷する巨人、長嶋茂雄監督のために復帰を志している

・かつてのエースでありながら、無地のユニフォームを纏い入団テストを受ける

・復活のステップとして、代走、代打のスペシャリストとしての復帰

・全く投球ができなかった右腕を鍛え上げ、再びエースに返り咲く

 


トランジションを迎えてそこから這い上がるキャリアストーリーであり、リストラなどの憂き目にあったビジネスマンに重ねあわせることもできる。

 


今は環境変化が早くて不連続だから、利き腕が利かない状況に陥ることは決して珍しくない。それによって、辛酸をなめる経験を味わうことだってあるだろう。その状況から、何を志として這い上がっていくのか。不屈の精神を持ち、志を持つ人においては、支援者が必ず現れてくれる・・そんな勇気を与えてくれる物語だったりする。

 


そして、何より良いのは、巨人の中での相対的に一番という「星」ではなく、畏敬する人間と共に戦う絶対的な世界の「星」を目指していくというところにあると思っている。

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ビリギャルへの疑問

「ビリギャル」は、一定期間努力をすることで、私学最高峰の「入学歴」を手に出来ることを証明したものの、日本における教育の惨状をある意味呈している物語だ・・と佐藤優さんは指摘している。

 


確かに、彼女は慶応大学に入学はしたものの、受験勉強においては、英語と小論文以外の科目は完全に捨てている。学校の授業でも、受験に関係のない科目はスルーしている。そうした教養が著しく欠けた状態で入学した学生が、卒業までにどれだけの学問を吸収できたか相当に懸念が残る・・と。

 


また、彼女を教えた予備校の講師も教育者として優秀なのではなく、クライアントを見立て要望に応えるに長けていただけとする。なお、「ビリギャル」の成立要素としては

 


①私立中学受験の経験があり、机に向かって集中できる力がある。また、人に挨拶をしてコミュニケーションできる力を持っている

②特定科目で受験可能な私学を目指せる経済力が親にあること

③受験に関係のない科目については、親が学校に交渉してまで負荷を軽減させる強引さがある

 


上記の一つでも欠ければ実現が不可能だろうと指摘している。

 


ダメ人間の烙印を押された人間が、努力して慶応に入るのはなかなか痛快。けれども、世界史も現代文もましてや数学など全く解さない学士というのもね・・ただでさえ、私立は科目少ないのにね。

 


ここでは、それらが社会ですぐに役に立つとか立たないということではなく、変則的なテクニックを使って、大学というブランドをとりあえず手にする。おおよそ本質を欠いた物語に、何の憂いもなくこぞって共感してしまう危うさです。

 


とはいえ、受験勉強によって疲弊し、生涯において学ぶ意欲を失くしてしまったら、何の意味もないことですけど。

 

関係ないけど、とても好きだけど離婚したって彼女の日本語は意味がわかりませんね。