Homare's Diary

組織人事コンサルタントの徒然日記です

カーストなんていらない

人事制度においては、等級制度というものがある。人の「偉さ」の序列を何かの基準で定めたものだ。これによって、処遇も権限も変わってくる。分かりやすいのは、大相撲の番付。横綱を筆頭に序列が定められている。最古の序列は、聖徳太子が定めた冠位十二階。


年齢、保有能力、発揮業績、職務価値、期待役割・・


基準の考え方は会社のビジネスや組織の状況によっても違う。実力主義とはいえど、日本人に圧倒的に馴染んでいる序列は、「年齢」。


上級生を「先輩」として盲目的に偉いと考える価値観は、学校時代に綿々と育まれている。たかだか数年早く生まれただけで、モノを知っているわけでもなく、偉いなんて事は全くない。だが、この序列は卒業してもなお温存され続ける。そしてこの序列は、多くの企業で未だに採用され続けている。年齢と等級の相関はどの企業でも高い値を示すから。


20年も前のこと。


デロイトにいたとき、僕は同年時のプロパー社員よりも早く昇格させてもらえた。その時に一つの攻防があった。それは、同じプロジェクトで後からジョインした相当に上のオジさんがマネージャー昇格候補に推薦され、僕はそこから漏れたことだった。


その年は、マネージャ昇格に向け勝負だと考えていた僕は、相当にストレッチして業務に臨んでいた。確実に成果も出していたので、もちろん昇格候補に上げてもらえると考えていた。その時ばかりはパートナーに食い下がった。果たしてパートナーが実力者だったこと、僕の仕事ぶりを影に陽に見てくれていたマネジャーが応援してくれたこともあり、僕は晴れてマネジャーの仲間入りが出来たのだけど、実力主義コンサルティング会社ですら、年功要素が入っていることを若かった僕は痛感したのだった。


一方で、実力で序列を決めても新たな問題が生まれてくる。人は、誰かと比べられて相対的に優劣を決められることを好んではいない。特に、同じレベルだと考えていた存在が自分より優位な立場に行く。自分の立場はそのまま。これまでには感じなかった「ネガティブな感情」が新たに生まれてくる。


この季節は、プロモーションが検討される時期。ある人は上に上がり、ある人は上がれない。上がる数には限りがあるし、なにより厳然たる評価、判断の基準というものがある。でも、それは劣位に置かれた人の自尊心を傷つけることにもなる。


今日は、そんな人の気持ちに寄り添っていた。明確に課題はある。その意味も分かる。でも、なぜ自分が劣位に立つのか。自分をどう価値付けしていくのか。人は弱いからどうしても外形的な価値付けに揺らいでしまう。彼の目には涙が浮かんでいた。


フリーランスの時には、僕には等級なんてものはなかった。リクルートの名刺と肩書きはもらっていたけど、それはあくまでも形式的なもの。僕は会社という観点でも等級という観点でもノーブランド、ノンタイトルだった。でも、僕は誰かと比べられるわけでもなく、等級は番外地であり、その意味は無限大だった。


会社というところに入ると、等級が定まる。肩書きもついてくる。そこである一定の価値づけがなされる。好もうが好まざるとも。でも、それが不幸を生み出す。


みんな違ってみんないい。神は一人一人を特別なものとして作られた・・であれば、人が決める序列なんてものは、人の尊厳や才能の発揮を阻害している異物。本当に成熟した組織においては、等級なんてものはいらない。ただの「カースト」だもの。

フリーランスは、タックスフリー

今年度の確定申告終了。


今年は国税庁の確定申告書作成ページを使いました。非常に良くできていてわかりやすい。確定申告書が簡単にできる。以前は、法人税務申告ソフトに付属の作成ソフトを使っていたのですが、市販ソフトよりもいい出来で、使う必要がありません。よもや手書きなんてありえない。公共機関もサービス向上で素晴らしいことです。


フリーランスから給与所得者となり、税務申告は圧倒的に楽になりました。かつては個人の確定申告に加え、法人決算と法人の税務申告があったからです。後者は、税理士さんを使わずすべて自分でやっていたので、申告時期は実に大変でした。(ズボラな人間ですからね)


給与所得者となり改めて感じることは、社会保険料国税地方税の圧倒的な高さです。額面は上がりましたが、手取りはガクンと減りました。フリーランスの時には、考えられる範囲で社会保険料と税金を最小限にコントロールしていました。給与所得者となると、全くコントロールができない。その差は、1年で数百万になります。ですので差し引きの手取りはフリーランスのほうが断然いいわけです。


特に驚かされるのが社会保険料の額です。多く払ったからといって年金がさほど多く戻ってくるわけでもない。今後はさらに上昇し、もらう額は減っていく。税金や社会保険料の仕組みを知れば知るほど、給与所得者というのは実に損な立場にあると思うわけです。自営業の人が、経費で損金処理が行えることも含め、可処分所得が多いというのは実に納得な構図なわけです。


給与所得者はお金の面ではさほど魅力はありませんが、大きな法人においてそれなりの資金が投下されたプロジェクトに関わったり、マネジメントの立場として様々な人と連動して大きな仕事が主体的にできるのは魅力です。特に今の環境は、ハートのいい人が多いですからね。


一生のうちで一番高い買い物は、「国」と「社会保険」。ですから、資産を守っていく観点においても生涯現役という観点でも、フリーでやっていくというのが正しいでしょうね。

他人にテーマは預けない

事業会社のキャリアに異動はつきもの。それがたとえどんなに愛着を持った組織やテーマであったとしても。毎年この季節になると異動にまつわる悲喜交々がある。

 

僕は、新卒から専門サービスファームでキャリアを歩んで来たので、異動辞令なるものには縁がない。テーマを変えたいと思ったら会社を変えている。そもそも、会社への帰属より何をするかを重視するので、自分の事をロクすっぽ知らない他人にする事を決められるなんて、とても受入れ難い。

 

でも、人に自分のやることを決められたくないという思いは程度の差こそあれ、誰にでもあると思う。特に自分で愛着をもったテーマから第三者の意思で離れるなんて、やっぱり苦痛だろう。それでも、大会社にいる多くの人は忸怩たる思いを抱きながら、それに従うんだよね。

 

それも悪くないけど、愛着があるというのは自分の心の声。その声を無視すると仕事が自分のアイデンティティにならないし、専門性も深まらない。島耕作のように出世の階段を登って65歳を超えても活躍できるような幹部になるのであればそれも良しだけど。

 

やっぱり仕事を自分のアイデンティティとしていくのであれば、柳川先生が言っているように40歳定年というのは一つ妥当な線じゃないかなと思うよね。

生きるとは命を爆発させること

「自分を認めさせよう。世の中で自分はどんな役割を果たせるのだろうか...そんな事を考えるのは無意味だ。生きるとは本来、無目的で非合理なものだ。だから瞬間、瞬間、無目的に無償で、生命力と情熱のありったけを使い、全存在で爆発すればいいのだ」

岡本太郎さんは、その才能を最初は誰にも評価されなかった。学校での成績も振るわず、学校は中退を余儀なくされた。芸術の道で生きるようになっても、彼に対する批判の風当たりは非常に強かった。

若いときは、自分の生きている価値を見いだせず、自殺まで考えたという。その岡本太郎さんが逆境の中で苦悩し、見つけた境地。

人の評価とか世間の常識。自分が何かを決めたり行動するときに、自分の外にあるものにすがってはいけない。自分の中にあるものだけを信じていけ。

岡本太郎さんの作品は、他人に評価されるとかではなく、自分の中にあるビジョンを忠実に表現することに拘っている。見ていてものすごいエネルギーを感じるし、また爽快でもある。

本音で生きて、表現したり行動をすると時に誤解も生まれる、批判もされる。でも、他人の評価に身を委ねる予定調和の人生は、自分の人生じゃない。

「一番面白い人生とは、苦しい人生に挑み、闘い、そして素晴らしく耐えること。逆境にあればあるほど面白い人生なんだ」

岡本太郎さんの生き方は、大きな勇気を与えてくれる。

君にだから頼むんだ

先月キャリア研修を行ったB社。今日は、アンケートをもとにした振り返りでした。


手応えの程はアンケートの数値結果にも明確に出ています。有意義度平均4.3 講師満足度 4.4。何より漠然とも将来を考えていなかった方々が将来への手掛かり、関心を上げてくれた事が何よりの収穫。


人事部主催の研修では、過去最高の内容だった。受講できなかった人も受講者からの評判を聞いて、受けたがっていたと…


たった一人で細々と制度改定のアドバイザリーから研修企画、デリバリーとやってきた甲斐があるというものです。何より嬉しいのは、来年度はもっと多くの研修とコンサルティングの機会をいただけること。


報酬が上がらなくたって、偉くならなかったって。こういう一期一会の積み重ねが自分のアイデンティティだし、明日への活力を与えてくれる。君だから頼むんだ…この言葉にどれだけ勇気づけられるのか…と。

渇愛の重力

自分がこれだけ尽くしてあげたのだから、好きなのだから、愛したのだから…


相手に見返りを求めるのが人情。でも、交換の原則においてなされる行為は愛じゃない。瀬戸内寂聴さんは、愛とは無償のものだ断った上でこう言います。


『男女の愛でも、親子の愛でも、兄弟の愛でも。愛しているっていうのは、妹さんが言った一番確かな言葉は「お姉ちゃんの愛はエゴだ」って。これですよ。みんなエゴなの。愛してる自分を愛してるんですよ。自分はこれだけ愛しているから、相手もこれだけ愛してくれて当たり前ってね』


『自分が10愛しているんだから。相手はそれに利息を付けて12の愛を返してくれって、それがみんなの気持ちなんですよ。銀行だって利子が付かない時代に、何で利子が付きますか。だから、10愛して3返ってきたら良い方ですよね。返ってこないの。愛は無償です。あげっぱなし。あげっぱなしの愛でないと、これは本当の愛じゃありません』


でも、エゴの愛にとりつかれてしまった人においては、その重力から離脱するのはとても難しい。


渇愛ってものは恐ろしいものなんですよ。だからそんなにね、軽々と恋愛しないでくれって言いたいですね。そんなにね、軽々しくするものじゃないと思いますね。やっぱり、愛すると同時に苦しみが伴うんですよね』


そうなのですよね。でも、そうした出来事は事故のようにやってくるものだともいいます。そして、道を外れた恋愛に走った場合…純愛…それは、幸なのか不幸なのか分からない。なぜなら、その場合の無償の愛とは全てを失う覚悟が要求されるから。


『全部失うんですよ、純愛は。全部失うの。世間から指弾を受けるし、家族からは見限られるしで、全てを失うんですよ、純愛は。純愛を貫こうと思えば。それくらいの覚悟がないとそんなことしちゃいけませんよ。』


渡辺淳一さんの小説で私が一番好きなのは、『失楽園』なんですよ。あれはとても売れましたね。あれは結局心中しています。全てを失っていますね。全て失って愛を貫いた。もう馬鹿だ。とかね、情けないとかね、人は言ってもですね、それは仕方がない。あの二人は全て失ったんだから、許されるんですね』


肉体の重力から解き放たれないと、渇愛の重力から解き放たれて無償の愛に行き着くことはできないのでしょうね。僕においては、そういう事故がないのはある意味で幸いともいえましょう。

絶望=苦悩ー意味

オーストリアの心理学者。ヴィクトール・フランクルナチス強制収容所での極限の体験を記した「夜と霧」の著書で知られています。


彼が提示した公式。絶望=苦悩-意味。


いかなる苦悩の中にあっても、そこに意味を見出すことができれば絶望することはない。むしろそれは希望となる。味わい深い公式です。いつも、落ち込んだり、不満を撒き散らしている人は、意味を見出すことができていないから、絶望の縁に落ち込んでいると言えます。


人生においては、望まなくても苦悩は訪れてきます。そこにどうやって意味を見出していくのか。フランクルは、生きる意味を見出す上で「体験価値」「創造価値」「態度価値」の3つを提示しています。


体験価値というのは、自然、芸術、愛を体験すること。
創造価値は、仕事をしたり、芸術作品を作ること。
態度価値とは、運命を受け取る態度。


僕の場合の体験価値。夕景や季節の花々を見ること。庭園や建築をみる、音楽を聞くこと。創造価値は、今の仕事そのもの。そして、声楽をすること。


体験価値、創造価値は普段からかなり意識しています。いつも苦悩に満ちた毎日を過ごしているからじゃありませんが、しんどいときほど美しいものに目を留めるようにしたり、人に喜びを与えることを意識しています。


アンパンマーチにこういう歌詞があります。


なんのためにい生まれて 何をして生きるのか
答えられないなんて そんなのは嫌だ

何が君の幸せ 何をしてよろこぶ
分からないままおわる そんなのは嫌だ


結構、この歌詞って深いんですよね。そして、この歌詞には共感するところ多いです。僕の場合は、一度死にそこねているから、生きている意味なんて基本はあるはずと思っています。